あかつきにもやう
すべてがたまらなく嫌になる。つらくてつらくて、心臓がぎゅうぎゅういうような、泣きたくなる日だ。日々の生活の中での少しだけの不幸が、大きく広がって私を包んでしまうような夜だ。
不安はたくさんあるともいえるし、しかしそれは今激しく沸き起こったものではなくて、常に自分の中に胚胎しているものばかりだ。
実家では父と母が静かな闘いを続けている。一番つらいのは彼らだとわかっているけれど、彼らのことを思うと、ことの不条理さになりふりかまわず泣き出したくなる。それなのに、実家から逃げ出して、東京の学校に入ってしまった自分はもしかしたらとんでもなく情の薄い、自己中心的な酷い人間なのではないかという思いにとらわれたりする。言葉にすると単純で、なぜ自分がその苦しい関係から抜け出せず、忘れることもできないのかがいっそ不思議なのだけれど、きっとそれは昨日を暮らし明日を暮らしてゆく時間の中の中にいれば当然のことなのだろう。
寮の部屋には居られなくて、そっと抜け出すことが最近増えてきた。それはちょっとしたスリルと緊張感を楽しむためではなく、寮の白い壁を見ているとその中に自分の肺や心臓や、心の中のものが塗り篭められていってしまうような錯覚が沸き起り、悲しなって我慢できなくなるからだ。できればこのようなことはしたくない。夜の風は熱帯夜でも身体を冷やすし、何しろ匂いが切ない。こんな夜に誰か、先生や補導員に捕まったら風船を針で突いたように私は泣き叫んでしまうと思う。お願いです。放っておいてください。悪いことする気なんかまったくありません。早く朝へ連れて行ってください。
二階の廊下の突き当たりにある小さな跳ね上げ式の窓は、皆に「非常口」と呼ばれていて、外から遊びにやってくる友人や、夜中にコンビニに行きたいときなど、大いに活用されていた。夜に耐えられなくなってその窓を通るときは、そこから新たに生み出されるような気分になる。といっても、裏の道路に降り立つとそこはいつもの夜の裏道でしかなく、当たり前だが別に世界が変わっていることはない。窓を通って本当に新しく生み出されれば、少しは気分も楽になるだろうになあ、と無理なことをよく考える。少なくとも、私は早く今の自分を取り巻くもろもろのつらいものを過去にしてしまいたい。早く、この圧し掛かるように辛い日々をいっそ不思議に思うような日を迎えたい。
私が抜け出すときは、A4サイズが入るような鞄かプラスチックの手提げを持つようにしている。自分の中では、大学生が学校の終わった後に友人と飲んでいて遅くなってしまいましたと言う設定で、鞄の中には講義のための資料が入っています、ということなのだが、どれだけ周りを騙しきれているかでは定かではない。とにかく、その鞄はお守りのようなものだ。何か持っていないと、不安なのだ。
その日も私はなんだかどうしようもなくなって、夜中の一時過ぎに寮を抜け出した。
行くところといっても、せいぜいファミレスかコンビニか、漫画喫茶だ。今日はあまり動きたくなかったので漫画喫茶へ行くことにする。
店には、年齢って作った会員証を使って入る。受付の気だるげなお兄さんを見て、いつか自分がバイトするならこういうだるいところにしよう、となんとなく思った。蛍光灯の明かりと、安い合板の本棚、やや古い型のパソコンが情けない感じでもあり、自分が吹き溜まるのに丁度良い様でもある。ドリンクバーで小さなグラスにコーラを注いで、合皮で出来た大きなオットマン付き座椅子がでんと置かれた一メートル四方の個室に入ると、まず何をするかで途方にくれた。漫画を読む気がしない。こういう気分のときは、どんなに面白く思い入れのある漫画を手に取ったとしても詰まらなくて、許せなくなってしまうに違いないから、漫画を嫌いにならないためにも、読まないようにしているのだ。ネットにもうんざりしていた。液晶の文字は意味を持たず、光で表された文字が拷問みたいに感じられる。何かに没頭してしまえば、夜一人で居る胸苦しさが消えてしまうことは知っているけれども、何しろ気を紛らわせる方法が見つからない。誰かにメールでもしようか。誰に?どんな?―――思いつかない。携帯電話を取り出して電話帳に並んだ名前をスクロールしていると、向日岳人の名前が表示され、胸がひやっとした。
今日の昼間、岳人は猫を抱いていた。私は猫や犬を飼ったことがないし、飼っている家庭が身近だったこともなかった。だから私は猫が抱けない。
岳人が抱いていた猫は、学校の交友棟のあたりでよく見かける小柄でやせた雌猫で、少し汚れた茶色いトラ模様だった。その猫を見るたびに氷帝学園でも野良猫を住まわすくらいのゆるさがあるのか、と思った。生まれつきなのかは知らないが、その猫の鳴き声はかすれて小さく、咽をやられているようだった。でも案外普通に生きていた。
私は交友棟の一階にあるサロンのテラスで、部活前の短い時間を休んでいた。少し離れた歩道で岳人と慈郎がこそこそと笑いあっているのが聞こえる。交友棟に住み着いている猫をかまっているようだった。二人で猫を取り囲んで、ひとしきり撫で回した後、岳人は軽々と持ち上げ胸元に抱いた。躊躇なく手のひらで猫の毛を逆立てる。そして岳人は歓声のような声を上げた。
「お!こいつ妊娠してる!」
「マジで!」
慈郎は嬉しそうに猫の顔を覗き込んだ。
「たぶん。腹の触った感じが硬いもん」
岳人は、道草のどの木の実が食べられるかだとか、サルビアの蜜が甘いだとか、そういう日々を取り巻く生き物のことに詳しかった。
「赤ちゃんいつ産まれるかなあ!」
「さあなあ。まだまだだろうな」
「すごいねえ。こんなよわっちい猫でも赤ちゃん産むんだねえ」
「な」
私は、その猫が余りに弱々しかったので見るのが嫌だった。でも、そいつはいつか子供を生むという。そんなものなのか。岳人と慈郎は歩道に立っている時計を見上げると、部活の時間が近づいていることに気づき声を上げた。名残惜しげに猫を放す。猫は、二人の足元に擦り寄った後、緩やかに去っていた。私はその細い尻尾をなぜかどきどきしながら眺めていた。
「侑士!待ってろよお!すぐ!俺かばん取ってくるから!」
と、走り去ったと思っていた岳人の声が聞こえた。彼は大きく私に手を振る。なんだ、と思う。彼は私に気づいていたのか。岳人は走って猫とは反対側に消えてゆく。猫よりも心臓の鼓動が早い生き物のように、軽やかな様子だった。あの軽やかな男の腕は、きっと獣の前足のように風を切っている。私は唐突に、抱かれたい、と思った。それはきっと前から思っていたことなのだけれど、そのとき閃くように私の頭に浮かんだのだ。
岳人に擁かれたい。あの猫よりも。
大きなテニスバックを担いだ岳人は本当にすぐに息せき切って現れた。
「侑士。侑士。部活いこうぜ」
汗ばむほどの速さでやってきた彼は、私が座っている椅子の背もたれに両手を掛けて大きく呼吸をしている。
「おう」
「行こ」
岳人は私を促し歩き出す。彼はいつも私の前を歩く。
「侑士、あの猫見た?」
「見たで。ロミちゃんやったっけ?」
私は自分が猫の名前を知っていたことが少し意外だった。そして、少し嬉しいと思った。
「ロミ、赤ちゃんできたみたいだよ」
「聞こえとったで。
あんなちっこい猫でも、子供産もうとするんやなあ」
そういった俺に、岳人は少し嬉しそうに「そうだよ」と言った。
「赤ちゃん、みんな死なんと生まれてくるかなあ」
岳人は笑っていた顔を少し固めた後、悲しげな目で私を見た。その目はいつか来るかもしれない猫の死ではなく、私のことを悲しんでいると言うことがなんとなくわかる。
「どうかな。
でもさ、購買のおばちゃんらが、餌やってるしさ、氷帝は生徒多いしさ、誰かがもらってくよ。
きっとみんな平気だよ」
「そうやな」
「あ!猫かまってたらもう完璧部活始まる時間じゃんか!
跡部に切れられる!」
岳人は走って部室等に向かうあいだ、私の手を引く。彼の手は少し湿って冷たい。たぶん、猫を触った後に、急いで私の元に駆けてくる途中、急いでいる中でもどこかの水道で洗ってきたのだろう。
岳人は私が猫を抱けないことを知っている。猫を少し怖がっていることを知っている。猫を触った手で触られるのが少し嫌だと思っていることを知っている。
「ごめん侑士。俺嘘ついたかも」
「え?」
「子猫、やっぱり、弱く生まれた子は、死んじゃうかも」
「そっか」
「そしたら悲しいな」
猫は案外死なない。そして、やはり死んでゆく猫もいる。でも岳人となら、きっと私は猫の墓を作るのも怖くない。かもしれない。
四方が囲まれた個室の中で、あまりに何もする気が起きなかったが、ひとまずちらちら光るパソコンの画面に向かい合って、ニュースヘッドラインを目でさらう。知りたいことがなかった。こんなところにいるから良くない、と言うのはわかっている。私には日中の、岳人と走る部室棟までの道のりとか、皆で走るはるかなマラソンコースだとか、そういうものの積み重ねがあり、その貯金でどうにか保たれているのだと言うことを感じる。私は、学校が好きだ。馬鹿らしいことは沢山あるけれど、学校があるから、どうにか日々を回してゆけるのだ。あそこに行けばテニスができる。あそこに行けば弾くような跡部の叱咤が聞こえる。あそこに行けば岳人に会える。
夜は怖い。私の両親が喧嘩をするのは夜だった。別にそれはかまわなかった。確かに厭なことではあったけれど、もっと厭なことがあった。なにより、怯えて眠って、次に目を覚ましたときに静かになっている暗闇のリビングを感じるのが怖かった。もしかしたら、あの家の一切合切が、私と私が眠るベッドを置いて消えてしまったのではないかという気分になったからだ。遠くで車のエンジンが大きく鳴るのを聞くと、それは世界が去ってゆく音になった。
光るパソコン画面を見ながら、そんな短い夢に嵌り込んでいる自分に気づく。咽がもやもやする。気持ち悪くなって、手のつくところにおいてあった炭酸がまだ消えない甘いコーラを飲み込んだが、どうも喉もとの異物感がぬぐえない。むしろ、コーラを飲むことによってさらに奥のほうに押しやられた異物がそれでも飲み込めず、より不快感を撒き散らしていた。何度唾液を嚥下してもそれは胃に落ちては行かなかった。もしかして。
私は思い切って、右手を口の中に突っ込んで人差し指で喉の奥を探った。穏やかな吐き気がこみ上げてきたが、我慢して舌の付け根を探っていると、ざらざらぬるぬるした指触りの先に私を悩ませていたと思われる異物の感触があった。人差し指と親指で摘み取ろうとするが、右手を口の外に出しても、その異物は舌の根に張り付いたままで付いてはこない。泪目になるほどに奥をかき回して、もうあきらめようかと思ったときにやっと、舌の上で指に掴まれた異物が動き出す感覚があった。そのまま口の外に引きずり出すと、それが舌の上を這うのに妙な性感があって、寒気がする。
目の前に持ってくると、それはやはり髪の毛であった。
黒くて、腰がない二十センチくらいの毛髪は明らかに自分のものだった。そう信じた。これが、他人のものだったら胃の中のものを吐いていたと思う。私は吐かなかった自分に少し安堵した。
そしてそこで、脈絡なく携帯電話が振動した。なぜか、実家からかかってきた、と思った。どこか、携帯電話から逃げ出して、この場を離れなければ、と阿呆のように思った。しかし、名前の表示を見るとそこには向日岳人、とあった。私は、実家からかかってきたと思ったときよりも、彼の名前を見て動揺した。ぱあっと音がするように頬へ血がめぐる。一秒でも待たせると切られてしまうような気がして、私は手をもつれさせながらすぐに通話ボタンを押した。
「もしもし!」
「お前今どこにいるの?」
かみさまかみさま!と思った。神に祈っているのではないけれど、彼から来る電話のタイミングは私を救い上げ慰めるようで、びっくりしたからだ。この世にいないはずのかみさま!
「寮にきまっとるがな」
「うーそつーき」
「嘘つくわけあるかい。今何時やと思っとるん」
「だって、部屋に侑士いないじゃん」
「え?」
嬉しさから一転、肝が冷えた。岳人の周りは静かだったから、彼はきっとどこか室内にいるはずだということが判った。
「いないじゃん」
「……なんでそないなこと分かるん」
「俺、今侑士の部屋にいるもーん」
「え」
岳人が一人あの私の巣の中にいるのかと思うと、緊張のあまり喉が詰まるほどだった。
「不良。
今どこ?」
「……」
「いーまーどーこー?」
「コンビニ」
私は嘘をついた。
「本当に?」
「……」
岳人は少し腹を立てたようだった。
「……まーいーや。
速攻帰って来い!
せっかく来たのに侑士いないし暇で死ぬ。
お前のエロ本俺の趣味と違うし。
てか十分以内に帰ってこないとベッドの下のもの廊下にぶちまける」
岳人の胸に響く心地よい声。いつまでも聞いていたい遠くのお祭りのような声。
「ぎゃー!」
「はい!ほら!今すぐ!
走って走って!」
走って帰れば岳人がいると言う驚き、恐ろしさ、そして信じられない嬉しさが私の体をどこかにつれてゆく。
「ちょおまて!
ほんまにそないなことしたら、しばくぞ」
「走って走って!跳んで!回って!」
「意味わからんし!」
「侑士」
「なんやねんな」
「待ってるからさ」
岳人の言葉は鋭く胸を突き、私は困ってしまう。
私は胸をじんじんさせながら、夜の冷たい風の中、小走りで帰った。初めて心の底から、誰にも見つからないといいと思った。彼に会うまで、誰一人として私の邪魔をしないでほしいと願った。
ドアを開けると、岳人は私のベッドに背をもたれ、床に座っていた。ベッドの上から取り去った布団をぐるぐる巻いて、体を温めていたようだ。
「おせーよばーか」
彼はエロ本ではなく、私が持っている文庫本の一冊を手にしていた。
「すまん。どうも暇で出かけとった」
「いいけどさぁ。
てゆっか、侑士、目が赤いよ。」
「え?」
「見して」
「え」
脱いだジャケットを手に、居心地悪く立っていた私は、岳人に強く腕を引かれ彼の隣に座るようになる。
「すごく真っ赤だよ。大丈夫か?」
「あー……。ああ。うん。
岳人が早よ来い言うてうるさいから走って来てやってんで。あんま急いだから風あびて鼻水やらなんらや出てきてもうたんや」
「そうか」
岳人は今の私の言葉を本当でも嘘でも、どっちでもいいと思っているようだった。
「布団勝手に借りた」
「ええよ。
てか入れて」
「うん」
岳人の隣に入れてもらうと、ぼんやりと暖かく、外を走ってきた皮膚がしばし緊張した。そしてしばらくすると、身体の何もかもがゆったりしてくる。
「ま、ほんまは泣いとったんやけどな」
「何に?」
「いろいろ」
「そっか」
「うそ」
「……ごめんな」
「なん?」
「いや、侑士が嫌なときに来ちゃったっぽいからさ」
「そうでもないで」
岳人と居るときは会話の内容よりも、とにかく岳人と言葉を交わしていることが私にとって重要なことがよくあった。
「昼間にな」
「うん」
「お前、ちょっとおかしかったろ?」
「そうなん?」
「うん。なんかさ。ちょっとな。ロミのこととかさ。ああいうの、侑士、本当に嫌いだろ?
猫が死んじゃったりする話とかさ。いや、ロミもその子猫も死なないけどさ」
「そうか」
「うん。
てゆっかまあ、単に俺が侑士と遊びたかったんだけどさ」
「こんな夜中に?」
「なんかさ、わかんないけどさ。おれ邪魔だったら邪魔って言ってな」
「そんなことない」
「おれには言いたいこと言っていいからな?」
「……」
なぜか、気が遠くなるような感覚があった。
「え!何!泣いてんの!」
「違う」
指摘されるとなぜか許されたように泣くのが止められなくなる。
「どうしたの侑士」
岳人もさすがに、いきなり切れたようにぼったぼったと泣き出す私に驚いたようだった。
「ごめんなあ…、なんか…。
近頃、家族のこととかな。まあ、煩わしいことがようさんあってなあ。
いろいろ考えて、いややなって思っとってな」
「うん」
「で、そこに岳人が電話くれたから、なんか、ちょっと、嬉しゅうてなあ」
岳人は何かに気づいたようにはっとした顔になる。そしておれをじっと見た後、納得した目で笑った。笑った顔の岳人を見たら、とうとうおえつが漏れた。
「ほら、ティッシュ。
拭いて」
「おう」
ちょっとびっくりするくらい涙がばーっと出て、ついでに鼻水も大量に出てきたので、岳人がくれた五枚重ねのティッシュがすぐに水分で小さくなってしまった。
情けない。情けないけれど、私は今始めて、自分の家族のこととか、不安なこととかを素直に苦しいものと認めた気がする。なんだか、なんだか、とても腑に落ちた感じだ。ああそうか。自分は辛かったのかそうか。そりゃずっと意味もないほどに辛い辛いと思っていて、この辛さはほんとうにどうしようもなくて誰も押しのけられない布みたいに重たあく垂れ込めていると感じていたけれど、なんだ、そうか、と。泣けばこんなに楽だ。ちょっとだけ、ちょっとだけでも気持ちを寄りかからせてもらうとこんなに軽くなるものなのか、と。
「侑士、なんか、大変だったんだな。俺、気付かなくてごめんな」
私をいたわって、いつもよりだいぶん気を使ってくれている岳人の少しおそるおそるな言葉は少しおかしくもあり、何より私をゆっくりと暖かい気持ちへ落としていった。
「すまんなあ。
おれ、今日、自分で思うとったよりも、だいぶん、参っとったみたいやな」
「そうだよ」
「そうやな」
岳人の熱い腕が私の体に少し緊張するほどの強さで回された。
「こんな、泣くまでがんばってる侑士はえらいと思う。
侑士はがんばってるよ。
俺、あんまり、詳しくは知らねぇけど」
「うん」
「無理しなくていいよ。
言いたいこと言っちゃえな。
俺、聞くし。
あ、言いたくないことはぜんぜん言わないでいいし」
「うん」
「俺、頼りないかも知れねえけどさ」
「そんなことないで…」
私が泣いている細かい理由なんて全然知らないはずなのに、岳人はずっと慰めていてくれた。猫を抱く岳人と、猫が抱けない私。別に分かり合えなくてもかまわなかった。一時のものであっても、彼の篤い腕と、歩み寄りがあれば、私はこんなにも慰められるのだから。彼の言葉は降り積もるように、私の波立った心を優しく抑え、凪に変えていった。
このように優しい友人がいるのであれば、明日も暮らしてゆける、と思った。もし、これからもまた辛いことがあって、へこたれてしまう日が来ても、彼の優しさを思い出せば乗り越えられると思った。
こんな風に、自分が優しくしてもらえる人間だと言うことを、私は今まで知らなかった。小説や映画で、誰かが救われるような話を見ても、それは自分以外の誰かのための慰めであって、私はずっと一人で耐えてゆくのだと思っていたのに。
岳人は、私はがんばっている、と言ってくれた。その言葉の真偽はともかく、今の私にはその一言だけで十分ないたわりだった。
「ありがとうな。がっくん」
「おう。めちゃ感謝しとけ」
岳人は心底からお礼を言う私に、少し胸を張って笑った。しかしその後に、首を傾けながら考え考え付け加え始める。
「でもさぁ。おれさーやっぱさあ、侑士とダブルスだから?お前調子悪いと落ち着かないというか。
いっつもさ、侑士がいろいろしっかりしてて、俺のペース作ってくれるだろ?
だからまあ、普通に考えて、俺のほうがすっごい感謝しているとゆーか。
うん。まあそういうこともあるわけでして」
「いきなり何なん」
「だからさ、時々、侑士って、意外と、俺に頼ってくれたりするじゃん。
俺のがいろいろ駄目なのに。
そんな俺でもさ、侑士のこと時々は助けれてんのかなーとか思うのね。でさ。
そーゆー俺らって素敵だよねー。
みたいなことを今考えたので言ってみました」
「ぶはっ」
「笑うな馬鹿!俺はなーもうなあっ!いまかなり恥ずかしかった!」
「すまんすまん」
「つまりなんつーの?そういうことなんだよ。
侑士。
あんまありがたがらないでくれよ?
俺とお前はそういう感じなんだから。
俺は今日、自分が来たくて侑士んち来たんだし」
「……そうか。そうかあ。
そうやね。うん」
岳人が言うと、確かにそんな私たちはとっても素敵な二人だと思える。私は、岳人の腕に抱かれたいと思ったけれど、それもいいけれど、それだけじゃない、二人で手をつないでいこうって考える岳人の頭はなんてサエてることだろう!
私が岳人を支える日もあるということは、許されるだけではなく、なんとも満たされる事実だった。
岳人はまだ私のことを強く抱きしめてくれていたままだった。そして、私は彼の身体を抱き返した。ベッドにもたれながら、お互いになんだか妙に頼もしくて、笑いながら海へ踊りだしていけるような高揚感があった。私たちは船のようだと思った。だが、いまはまだ小さな船だ。だから、しばらくは腕を舫うようにして、走ろう。
二人の身体が触れ合った部分はうっすら衣類が湿っていた。つまり、汗をかくくらい私は体温を上げて大泣きしていたということだ。恥ずかしくなったが、岳人がさっさと部屋の電気を消してベッドに上がったのでので、もじもじせずにすんだ。
「ほら寝るぞ」
「うん。
ちゅーか、今寝て、起きられるんかな」
狭いベッドに居心地悪く十四才の身体を二つ横たえる。そして、肩を冷やさないようしっかりと上掛けで包む。
「んー……。もういいじゃん。今日くらい。
寝坊してもさ」
岳人は眠いのか、なんだか投げやりに、適当に笑った。私もいろいろなことが適当になって、弾むような気持ちだけ残る。
「いやや、一限数学やん。
怒られる」
「ふふふ」
「………」
「ほら、侑士。
寝よう」
岳人の、私より小さな身体と二回りも細い腕が私を包み込んでいる。そしてそこに私の手もつながって世界を支えている。私は、暖かくて嬉しくてこっそりまた泣いた。なんて良い友達なんだろうと思った。こういうのがパートナーなら、私はダブルスを選んだ自分を偉いと思った。
もう、窓の外はうっすら青く光がにじみ始めている。夜の終わりも近く、静かで優しい時間だ。
サイト再録本の書き下ろし
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