得られた日
すばらしい試合の夢を見たよ、と幸村は言った。
「相手は跡部だった。
時間がひどくゆっくり流れているんだ。
アドレナリンのせいだって、去年蓮二に教えてもらったことを思ったんだ。
あの感覚は知っているから。
二回くらい経験したことがあるし。
言ったことは、なかったろうか?
世界中の音が消えて、跡部が放ったボールから色が消える。
ゆっくりゆっくりネットを越えて、俺の手元にまで誘うように軌跡は伸びて、ガットに到達する。
俺は、自分の動きが速くなりすぎないように、ボールを良く見て慎重に順序を踏みながら腕を前に推し進める。
そういう時って、普通に打つと何でか知らないけど早く腕が先に行っちゃうらしくて、球に当たらなかったりするんだよね。
不思議。
そして、たまらなくなるようなヒットの重みと同じ瞬間、風が少しだけおきるんだ。その風も、撫でるようにとてもゆっくりしてる。
身体の近くを舞っている埃が、波みたいにさんざめくから、風の流れが分かって、とても面白かったんだ。
ヒットの感じは手のひらから骨を伝ってさ、胸の辺りにすごく心地よく響く。
胸が苦しくなるくらいに気持ちいいんだ。
スニーカーを通しているのに、タータンコートの感触が素足で触れているように分かってた。ゴムの柔らかい、いぼいぼした感じ。
あそこでは不可能なことなど何一つなくって、プレーヤーは万能だと思った。
コートの上では皆孤独だけど、孤独が何だっていうんだろうねぇ?」
あれは奇跡の瞬間だった、と幸村はため息をついた。幸せなようでもあったし、それと同時に過ぎ去ったものに対する諦めもあった。
「でね、俺が打つと、一瞬だけ世界に色が戻るの。
フアァって。
パステルで色をつけたみたいに、夢みたいに、あ、夢か。きれいに世界が色づいて。
で、跡部のラケットに球が近づくとまたなんかの効果みたいで、世界が白黒になって。
で、ずうっと試合してるんだ。
俺は途中で夢だって気付いちゃうんだけどさ。
何でかって言うと、ギャラリー8割くらいの人の服がきれいな薄いピンク色だったから。
あーこんなにピンク色着ている人がいるんだーおかしいなーって思って、あ、夢か、って。
でもずっと試合していたくって、目、覚めるなー覚めるなーって念じてたけど、まぶたの裏が明るくなってきて、あー駄目だー。
で、ね。
目が覚めるとちょっと酷い話なんだけどね。
夢精してた。
出ちゃってたんだ。
酷いね。試合の夢でって、どんなんだろうよ、ってちょっと泣きたくなったよ。
あはは。
ねえ蓮二。
俺さあ。治って、またテニスを出来るようになって、前以上に強くなったとするだろ?
そしたらさ、蓮二とも試合したいし、真田ともしたいけど、跡部とかともさ、すごくコートで会いたいんだ。また。
ほら、テニスってさ、相性悪い相手が一番相性良い、みたいな感じ、あるじゃない?
わかんないかな。俺はやりにくい相手ってのが一番好きだよ。真田も、確かに強くてサイコーだけど、ちょっとそことは違うんだよな。
今やれない状況だからこう思っちゃうのは仕方ないことだと思ってくれよ?
俺、本当にテニス、好きなんだよなあ。
死ぬほどテニスやりたい。
夢のせいかも知れないけど、テニスが今の俺の夢すべて背負ったみたいに、ほんとうに、素晴らしいものに思えるんだ。
なんなんだろうねぇ。
俺、たぶんテニスそんな上手くないんだよ。いやいやいや。本当に。
うん。でも、テニスには努力できると言うか…俺、テニスに対しては努力する才能あると思うよ。あはは。
だからいっそ、いま、自由にコートで打てるお前が憎い、とも思う。
蓮二にうそはつかないよ。
うらやましい。
俺のわがままに、困ってくれよ蓮二。
ほんと、腹いせしたいほどなんだからさ…」
幸村は恨み言を言って、私を少しにらんで、そのあと笑った。笑い声からは嫉妬の様子が抜け切ってなかったが、だからどうだとも思わない。幸村の言ったことは彼が今おかれている状況に対する報いと言うにはあまりにもささやかで、他愛もない。私がこの友人のために出来ることといったら、愚痴を聞くことくらいだ。
幸村と私は、似てはいなかったが、お互いの気持ちをよく解する間柄だった。何がそうさせたのかはわからないが、家庭環境や、見てきたものがある部分で似ているのではないか、というのが相互に達した結論だ。同じ訳ではなく、「ある部分でとてもよく似て」いるのだ。たいてい、お互い平和に愛し合ってはいるが、時折肺をえぐられるような憎しみに駆られることがある。それがこういうときだった。幸村は全部承知しているんじゃないかと言うくらいにあけすけに私に対してつらい言葉を募り、私もすべてを知って彼に慰めを与えない。
翌週は以下のような手紙が届いた。
『ずっと病院で臥せっていると、手紙に書いて面白いことが起きなくて困る。左のベッドの誰が退院しただとか、昼は何を食べたかだとか、何を読んだかだとか、そういう地味なことばかりだ。窓の風景も、毎日同じように切り取られたままだ。
しかし、逆に窓から見える毎日のまったく同じ視界というのは、ある意味定点観測のようなもので興味深いかもしれない。
窓の外を見ていると、どうやら、病院の近くにバレエ教室でもあるらしく、5時頃になるとお団子を結った小学生の女の子が自転車や徒歩で道路の向こう側の歩道を過ぎてゆく。みなバレエをやっているらしい。なんだか特別な身のこなしでかわいらしいが、顔までしっかり目視できるわけではないので少々残念だ。しかし、バレエのあの髪型(お団子では無く、他の正式名称があったはずだけれど、なんだったろうか?)は、きっと母親に結ってもらうものなのだろう。日本でバレエを習う子の多くは幸せな子に違いない。(お稽古事の面倒を本人がどう思っているかは別として)
そうだ。今日も夢を見た。部活をやっているときは疲れて眠りが深かったからか、夢を見ることがほとんど無かったが、最近は寝てばかりなのでひとつの眠りが浅いらしく、小川の川底が透けて見えるように夢を良く見るようになったのだ。
私は普段から、人の夢を語り聞くほど退屈なことは無いと思っているのだけど、小説やら漫画やらで読むものはひどく面白く感じる。この違いは何なのだろう?ともかく、書くことといったら夢のことくらいしかない私なので、またまた夢の話になってしまうが、ちょっとお知らせする。
まず。私はあのぼんやりとした藤沢駅前で人を待っていた。景色は少し奇妙な感じだったが、あの突飛な駅舎が後ろにあったので、確かにあれは藤沢駅だったはずだ。私が待っている人が誰だかは分からなかったが、自分と同じ年頃の男だったことだけは確かだ。しかし、遥としてその人物は現れず、私は酷く退屈に感じていた。ぼんやりとした昼間の光はいつの間にか夕焼けになり、家に帰って夕飯を食べねばと思うのに、自分の待っている人物がやってくるまで絶対に駅前を離れてはいけないと思う気持ちが強く、どうしても帰ることができなかった。時計の針はくるくる回って、時間はどんどん夜に近くなり、あせってあせって、不安が爆発しそうになった時にやっと待ち望んでいた人が来た。
それは、私が待ち続けていたはずの同年代の男で、それなのに時々緑色に光る黒い車を運転していた。私は、自分と同い年の男が車を運転していると言うことに釈然としない気持ちになり、なぜ自分はまだ車の運転もできないのかと情けない気持ちになった。男の顔は今でもよく覚えているが、夢の中だけでの知り合いらしく、名前は思い出せない。その男は、明るい調子で「乗って。海に行こう」と誘いかけてきた。藤沢駅から海までなんて、歩いていくべき短距離だし、ドライブにはなりそうも無い。なんだか、男が私のことを謀っていて、海ではなくもっと私が望まない場所に連れて行かれる気もした。私はもっと良い場所に行かなくてはならない用事があったはずだと思うと、遅れてきた上に当初の予定を変更する彼に対して嫌な気持ちが一杯になったが、友人の誘いを断ることもできず、車の反対側に回りこんで助手席に乗り込んだ。こんなはずではない、こんなはずではないと私は思っているのだけれど、車は発進した。私はシートベルトをしなければ、と思った。
そこで夢は終わった。
この夢を見たからと言うのではないが、私はずっと何かを待ち続けている気がする。それが何だかは分からない。でも、夢の中で私を迎えに来たあの車は、私が待っていたものとは確実に違うことが分かる。
人かもしれないし、物かも知れない。ことかもしれないし、時かもしれない。病気が治る日とか、退院の日と言う具体的なものではない気もする。
とにかく私はずっと何かを待ち続けている気がするのだ。
しかし、果たしてそれがやってくるときは本当に来るのだろうか?
なんだかよく分からない手紙で大変申し訳ないが、午前中に飲んだ薬のせいで眠れはしないのに酷くぼんやりする。つじつまが合っていないところがあると思うが、正気に戻る前に母にこの手紙を託してさっさと出してしまおうと思う。失礼なことかもしれない。でも、時々渡されるある薬を飲むと、手紙を書きたくてしょうがなくなるのだ。
私がこんなことを書き送っても、気持ちを汲んでくれるのは蓮二くらいだ。
では、さようなら。』
3週目に見舞ったときの幸村の報告はこうだった。
「ほんと夢ばかり見てるから、ずっと寝てるのに一日が長いよ…。
おとといの昼間に見た夢なんだけどさ、相変わらず変だったよ。
なんかね、夜なんだけど、俺と誰かで車に乗ってるんだ。多分、水色のキューブだった気がする。おとといは俺が運転してたな。
あはは。
で、貧相な草が生えている空き地ばかりの土地を走ってて川原に出るんだ。
サーチライトにくっきりと丸く浮かび上がる空き地の様子が情けない感じでさ、もっといい場所走りたいなあと思ったけど、そのときは「これは日常だから仕方が無い」って、訳がわかんないこと考えてた。
そのままボロイ板切れでできた橋を渡って、川の向こう岸にあるにある沼みたいなところに付く。
でも、行けるのはそこまでだった。
なんか、濃いい霧がかかってて、沼の様子がおぼろげで、その向こうがどうなっているかも見えないんだよ。
俺ともう一人は車を降りて「あー駄目だな今日も」って感じで向こうにいけるかどうかちょっと確認するんだけど、やっぱり駄目なんだよ。
沼のふちに立つとじめじめした足もとが少しかすむくらい沼にかかった霧は濃いんだよね。
で、しょうがないって感じで……あ!
いや、思い出したんだよ。
多分一緒に行ったの蓮二だったな。
そうそう。たぶん。髪型が蓮二だったもん。
あーそうだそうだ。
あ、で、話戻すよ?
それで、沼から向こうにいけないことが確認できたから、しょうがないってなって帰るんだよ。
なんか、俺たちは毎日沼の霧の様子を観察しているみたいでさ。
帰りの車を運転してると、家に着くまでに、沼のところと同じように霧がすごく濃くなっていて、どうなっているか分からないところが沢山あって、助手席に乗ってる蓮二が「これ以上霧が広がらないといいなあ」って言ってるの。俺も「そうだよね。怖いよね」って言って。
空に雲が切れ切れに浮かんでいる日ってあるでしょう?その雲がそのまま地上に降りてきた感じで、いろんな場所が途切れ途切れに霧になってるんだ。
で、気がつくと家のリビングでお茶なんかを飲んでて、ニュース見てるの。NHKのニュース7。
ニュースでも霧の話をしていて、あちこちにある霧は広がっていますって言ってるんだ。蓮二も「きっとあの霧は世界を飲み込んでいっているから、ひょっとしたら俺やお前も飲み込まれるだろうな」って言って、あー怖いーって不安になるんだよね。
だから、霧が攻めてきても家が飲み込まれないように雨戸を閉めようと思って、庭に面した大きな窓に近づくと、夜の真っ暗闇の中からいきなり真っ白い手のひらが浮かんできて、窓にばんって手形が付く。
うわーなんだなんだってパニックになりそうになったんだけど、好く見ると暗い中から男の人が窓を叩いて助けを求めてるんだよ。多分、霧に飲まれた人がそこから出てきて俺の家に助けを求めてるんだろうと思った。
どうしようか、って思って蓮二に聞いたら「霧はもう家の周りを覆っている。すぐに入れてやれ」って言うから窓を開けて急いで男を引きずりこんで閉めた。
男はワイシャツを着ていて、何でかびっしょりになっていて、震えていたからソファにおいてあったブランケットをかけてあげた。可哀想だから彼をずっと撫でていた。
俺は霧の威力に怯えていたけれど、男をブランケット越しになでながら、俺は彼が霧の中から来たのなら、霧の中には中なりの世界があって、飲まれたからってすぐ死ぬわけじゃないんだし、まあどうにかなるかなって考え始めてもいた。
そのときは家の中にいたからすぐ霧に飲まれてどうこうって感じじゃなかったし。
むしろ、もう家ごと霧に飲まれて、もうひとつの世界に飛んでっちゃったのかもなあって。
最後のほう、男の人は、ブランケットの中でずいぶん小さくなっちゃってた。最初はブランケットから身体がはみ出るくらいだったのに、きれいに収まって、濡れていたシャツも乾いてて、あったかそうにしてた。
ああ、これで安心だ、ってところまでが夢の記憶にある部分。
なんか、湿度の高そうな夢だったなあ」
手術直前に来たメール。
『何度も言っちゃってるけど、調整がんばって。俺も三日後には手術なので気合入れていきます。
あ、そういえば、また夢見たよ。なんか、皆で誰かの結婚式かお葬式に出ている夢。紅茶とマフィンが振舞われて、美味しかったです。今は、口から食べるごはんが禁止されているので、食べ物の夢をよく見ます。ご飯食べたいよ。
その夢を見て以来マフィンがやたらと食べたいので、治ったらみんなで食べよう。
じゃ。部活お疲れ。
常勝立海!』
「夢の話を覚えているか?」
全てに決着が付いてしまったあの日、私は幸村に聞いた。
「夢の話?」
「そう。お前が病院にいた頃、俺に夢の話をしただろう。沢山」
「あーえーあー。あー。ああ。したな、話をしたことは良く覚えている」
「手紙を書き送ったことも?」
「ボールペンを走らせたことだけ覚えてる」
「内容は?」
幸村は顔をしかめて一生懸命考えていた。
「猫の話とかだったっけ?動物の話とか、した?
蓮二に手紙を送るために売店で買った便箋や、ボールペンの種類まで覚えているのに、夢の内容は全然全くびっくりするほど覚えていないや」
「だとしたら、あれらはそういうものだったのだな」
幸村がすっかり忘却してしまった幸村のことを、私が事細かに覚えているというのは不思議なことかもしれないが、それが私の役割だと思うと、しっくりきたもの事実だった。
完
2009.7.27
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