舎利捨航海記





















 幸村上人は屁を簸るようにほっと亡くなられましたので、周りの者たちはしばし大騒ぎであった。しかし、身近な二人ばかりが、上人の最後の頼みごとを聞いており、彼が身罷られることを知っていたので、御倉山はたちまち平静を取り戻した。上人が生きておられたならば、大風が吹いても竹は撓るばかりで別に倒れはしないものだと仰るのではないかと思われた。
 最後のお言葉を伺っていたのは、真田氏と柳皇子であった。真田氏には今後の御倉山をくれぐれもよろしくということ。柳皇子には、一月後、近くの竹やぶを探して、最初に見つかるものがきっと自分の遺骨であるから、一欠けら持って天竺へそれを収めに行ってくれないかということだった。そして上人は、懐よりきらきらと光る二つの珠を出して、それぞれに一つずつ手渡した。片方が瑪瑙でそれは真田氏に渡され、もう片方は珊瑚でそれは柳皇子に渡された。上人が蜜人となられたことを真田氏は身も世もなく嘆き悲しみに暮れたが、柳皇子は幸村上人の途方もないお願いに少しばかり厭きれてしまって、しかも本当にすかしっぺの様に上手い具合に空しくなられてしまったので、それが少々憎らしくもあった。しかし、それは気の置けない間柄であるからこその腹立ちであり、柳の皇子はきちんと一月後、近くの竹やぶに分け入って上人の骨を探しあてた。その骨は一番太く青々とした竹の根元に人の形をとって整然と並べられており、すべてが美しく白く洗われていた。柳皇子はその様子にひどく感心し、どの骨を天竺の旅に携えて行くかをしばし思案した。されこうべか喉仏が相応しかろうということはわかったが、変り者であった幸村上人のこと、他にももっと相応しい部位があるかもしれないと思われる。柳皇子は竹やぶを分け入るのにつれてきた赤也という童子の考えを聞いてみることにした。
「運よく上人の御骨が見つかり、喜ばしいことだ。さて、私はこれを天竺へ持っていかねばならぬ。
そこで問題は、どの部位を持っていくかということなのだけれど、赤也、お前はどう思う?されこうべか喉仏か、はたまた他のどこかか」
 赤也童子は、弟子を取ることがない幸村上人が最後の最後に身近に寄らせた稀有な子であった。真田氏が三叉路に生えた木の根の隙間に捨てられているのを、拾ってきたのだった。頑丈な赤ん坊で、頬や手には雨に洗われたような跡が残っていたのに、少しも弱っておらず、貰い乳をよく飲み、与えたものは何でも喰った。爪や歯が頑丈で、木の天辺から落ちても骨一つ折らない子だった。
「上人は、人の気力は丹田に宿ると仰っておりました。なので、丹田近くの御骨などもいいでしょうね」
 幸村上人は、鬼子と後ろ指差される赤也童子をよく遊び相手にして、悪いことも良いことも、様々吹き込んでいたようだった。
「そうであったら、もういっそのこと、ちんぽうに一番近い骨でも携えていこうとしようか」  幸村上人が落飾される御前は、通う御家が十も二十家もあるくらいの、大そうな胆力家でありましたので、確かにその思いつきも良いものであると柳皇子も思った。しかし、長くなると思われる旅に、幸村上人のちんぽう近くの骨を持ち歩くのもむず痒いものとなりそうだ、と言う話になり、あまり物事を表立って悩まない柳皇子も、考えるのがあまり得意なことではない赤也童子も、黙り込んでしまった。
「困ったものだ。世を逃れた後のお前は、まあまあに落ち着いて、私を悩ます回数も減ったかと思われたが、最後の最後にこの無理難題とは、死者が我々を煩わすとは、お前らしくもない」
 柳皇子がそのように憎まれ口を言うと、綺麗に洗われた目映いばかりの御骨は、さらっと崩れてしまって、二人があっという間もなく、風に乗ってまたさらさらと、西の方に流れていってしまった。竹の根元には何も残されていなかった。
「おやまあ。私たちがもたもたしていたから、精市は堪えられず先に行ってしまったようだ」
「困りましたね。恐ろしくせっかちな人だ」
「まあ良いか。しかし、遺言は遺言だから、何かしらを携えて行った方が良かろう」
「そんな適当でよろしんでしょか?」
「赤也よ。そこらの木の種でも適当に取っておいで」
「ええ」
「もうそれで良いよ」
「こちらなどいかがですか。程よく大きく頑丈そうですし」
「おお。よいね。赤也はなかなか良い種選びをする。それでは行くかね」
「はい、はい。まいりましょう」
「出発は明日の日が昇る前だよ」
「私も行くのですか」
「来ないのかい」
「いいえ!参ります」
 柳皇子と赤也童子は、その目玉ぐらいの大きさの種を繻子で出来た小さな袋に入れて、旅に出ることにした。



瑠璃色の鳥人魚

 船ばかり乗って、もう十日である。赤也はすっかり飽きてしまっていた。
「鳥と魚ばかりですね」
「鳥や魚が見えるのなら上等さ」
「この近頃は海ばかり見つめねばならず、退屈です」
「まあまあ」
東北より、熱く速い風は絶え間なく吹いているので、船の進みはぐんぐんとしたものだった。海は青くさえわたり、覗き込めば二層三層にその色を透明に、深くしていった。
 入唐も渡天への出発も、恐ろしく速やかに運んだ結果である。まるで前もって誰かが手筈を整えていたように、天竺に渡るための人出はたちまち集まり、長安に入城してより渡天の許可の下りた早さといえば前代未聞であったろう。黄色と黒に塗られた船に乗って、柳皇子一行は真臘に向けてどんどん南下していった。
 船旅が退屈を極め、赤也の癖のある黒髪は潮風に揉まれいっそうごちゃごちゃになったある日、船底から、木槌のようなもので叩かれているような音がどーんどーんと響いて来た。岩礁などにぶつかったのであればもっと鋭い音であると船頭は焦り伝えてきた。船子たちが異常を探しに右往左往するが、舳先から船尾まで、船底に穴が開いた様子は全くない。しかし、そのどーんどーんと言う音は鳴り止まず、船がどんなに進んで行こうとも、一刻二刻絶え間なく、夜になっても続いていた。あまりについて回るので、赤也は何か生きものの仕業ではないかと柳皇子に質問した。
「何でござりましょう?南の海には人ほどの大きさの海獣が住むと幸村先輩に教えてもらったことがあります。その海獣とやらが船を狙っているんですかね?」
「儒艮(じゅごん)か、はたまたいるかであるか、どうにも海の獣が悪さをしているようだね」
「このまま船底をどんどんやって俺たちを怖がらせるだけなら良いですが、穴の一つでも開けられてしまったなら、大変なことになりますね」
「確かになあ。
よし赤也。お前、私の言うとおりに働けるかい?」
「何かむずかしい御用ですか」
「そうでもないさ。これで船底を私の言うように叩いておいで」
 そう言うと柳皇子は、胸元に持っていた珊瑚の珠を取り出して、赤也に握らせた。珊瑚の珠は、南の海の上で月の光に照らされて、その赤さをより一層輝かせており、幸村上人より手渡された時分から比べると、いくばか大きさを益したようにも感じられる。
「これの肌で船底を叩くのだよ。なるべく、どーんどーんと鳴っている近くでね。
どーんと鳴ったらそこに追うようにこーんと叩いて、またドーンと来たら、こーん」
「はい」
「しばらくしたら、おそらく向こうも心得るだろうから、お前の心地良いように拍子をつけてこんこん鳴らしておやり。
 そこまでいけば万事解決、あとは私も手伝うから、きっとうまくいくだろう」
 赤也は、とても落ち着いた様子で、目には理解ある輝きを持って柳皇子の話を真剣に聞いた。柳皇子は、このような窮地で、思った以上に生き生きと働こうとする赤也を、いとおしく思った。
「では、やっつけてまいります!」
「私は甲板に居た方が按排も良いから、ここで待っているよ」
 しばらくすると、船底に居る赤也は音の出所を見つけたようで、どーんという音の後に、鋭くこーんという音が小気味よく響いた。その繰り返しは様子を見るようにしばらく続く。
 どーん、こーん、どーん、こーん、どーん、こんこんこん、どーん、こんこん、どんどん、こんこん、どーん、こんここん、どんここん、どんどんここんどんここん。
 しばらくすると二つの音は、掛け合いをはじめ、最後にはすっかりと楽しげな祭りの調子を持って船全体に鳴り響いた。
 柳皇子は赤也が自分の予想以上に首尾よく成し遂げたので、普段崩さぬ表情を少しばかり緩めて、舷に腰掛け、袂より笛を取り出し口に当てた。そこからは、どんとこんに合わせて、笛を吹くだけである。楽しげな調子に音程まで着いたので、甲板の上は船頭から舵取りから船子まで、皆がやってきて踊りだし歌いだし、酒もないのにまるで宴会のようになった。
 どんどんここんの音も次第に船底より甲板の方に上ってきて、珊瑚の玉を握って赤也が船室からひょっこりと顔を出した。暗い中で、彼の目が赤くよく光る。もはや月の光が昼間ほどに明るく感じられ、どんどんの音に合わせて踊りながらあちこちを叩きまわれば、船自体が音を発する一つの楽器である。すっかりたけなわになった時、万を持して、柳皇子が笛より口を離し、鶴の一声。
「さあ、よーい!よーい!
揚がって来い!」
 ざばあと右舷より波しぶきを切って高く高く飛び立ったものは、星や月の光を浴びて、瑠璃色の光を放った。大きな魚のようだった。
「精市!」
 柳皇子は、幸村上人の幼名を叫んだ。あっはははははあ、と高らかにその大きな魚は笑った。
「幸村先輩なんですか!」
 鱗が放った鋭い光に当てられて。目を眇めていた赤也は仰天した。跳ね上がった大きな魚は、いつまで経っても海に落ちていかず、背中に生えた羽で、船の周りを陽気にぐるぐる回った。鱗がキラキラと光り、船にその瑠璃色の反射が当たる。供回り達は、より一層楽しげに歌い踊る。しばらく笑いながら飛び回ると、その鳥人魚は柳の隣に腰掛けた。よく見れば、塩水に洗われた黒髪も、緑に光るほどの目も、何もかもが幸村上人の面影であった。しかし、二本の足はまるで魚の様に尾ひれにつながり鱗に覆われていたし、背中からは鷹のように立派な羽が左右に広がっている。全く人外の生きものであるのに、船子たちは楽しげで脅える様子など全くない。柳皇子もすっかり心得た様子で、驚いているのは赤也ばかりである。
「ようよう。やっているようだなあお前ら!ここは扶南も近いかね?」
「いたずらしていたのは精市か。あまり迷惑をかけないでおくれよ」
「幸村先輩、いつから俺たちについていたのですか?」
「ずっとさ、ずっと!高麗でお前が辛子に狂っていたときも、柳が長安で宦官に間違えられたときも、ずっとだよ」
「全く面妖ですねえ」
 身罷る直前は、剃髪されていたはずなのに、今の幸村はかつてのように黒々とした髪を、艶かしく光らせている。
「赤也、お前の懐にしまった、俺の骨の代わりの木の実をお出し」
「はい」
 赤也は素直に、柳皇子と交代で持ち歩くようにしていた木の実を懐から取り出し、繻子の袋から出して幸村に渡した。
「ふふん」
 幸村はその木の実をしばし見つめると、突然口を開けて、ぽーんと喉の奥に放り込んでしまった。
「ああ!なんてことをするのですか!夜盗からも守って落とさないように大事に持って歩いて来た幸村先輩の御骨なのに」
「まあまあ、落ち着けって」
 息巻く赤也を、幸村は軽くいなした、柳は困ったものを見る顔で二人のやり取りを静観している。
「ねえ、柳さん。幸村先輩が大事な御骨の代わりを食べてしまいましたよ!
 もう、先輩が天竺くんだりまで骨を納めろと仰ったから、こんなことになっているのに」
「落ち着きなさいな、赤也」
「でも」
 すると、幸村は、ぐっと目をつぶって、しばらく丹田に力をこめると、その臍から、また新しい何かの木の実をポーンとひり出した。その木の実は、なにやら官能的な匂いを撒き散らして、すとんと赤也の手のひらに落っこちてきた。
「所詮俺は人の子だから、鳥になっても魚になっても、どこに行っても臍は消えぬものなのだなあ」
 そう幸村は言って後ろに傾ぐと、そのまま舷より落っこちて、止める間もなくざんと海に消えた。あんなに騒いでいた海原も月の光も船子も、とたんにしんと静まって、先ほどまでの異様な熱気は霧散した。
「ほれ赤也、大丈夫か」
 柳皇子ばかりが、終始落ち着き払っているのだった。
「今のはなんだったんでござりましょう」
「幸村が残した夢さ。
 貰った木の実はまた懐にお仕舞いよ。
 行こう。雲が真っ白だ」
 柳皇子が指差した先には、おそらく扶南であろう、緑が盛り上がった陸地が見えた。赤也はぐったり疲れていたが、額の汗を袖口で拭うと、木の実を握った手のひらが香って、その爽快な匂いに、一つ活力がわく気がした。



龍果の突風

 扶南である。
 扶南の土地が見えても、そこにすぐさま上陸というわけには行かない。あの暖かい島国よりやってきた柳と赤也には、熱帯の密林生い茂る、非常に過酷な土地である。しばらく陸を遠くに見ながらぐるりと回って、大きな港を見つけるのにまた何日も。しかし、暑さに辟易していた赤也はもう腹を決めてしまって、もろ肌脱ぎ裾絡げ、船子たちと飛び回り船仕事のもろもろをこなしていた。すっかり色が黒くなって、扶南に住む人と見まごうほどの順応振りであった。
 港は大そう大きなものであった。貿易や仏教の中継地点である。あちこちを僧たちが行き来しているが、橙色の法衣から、絢爛な袈裟まで背負った長安でよく見るような僧まで、様々な見てくれだ。
「この土地は、甘い匂いがしますね」
「こちらの方は、様々な果実が一年中絶えず実ると言うからね。甘く芳香豊かなものから、私たちには難しい、妙味たっぷりのものまで。
 市が出ているから、そちらでいくつか手に入れようではないか」
 柳皇子と赤也は南方特有に刺激的な食物の匂い漂う市を、あっちへこっちへ散策する。並ぶものはどれも御倉山では決して見かけない強烈なものばかりである。
「こちらはなんというのでござりましょう?赤い実に緑の毛とはなんとも悪魔の卵のようではありませぬか」
「それは龍果であろう」
「龍の何かなんですか?」
「私は名しか知らぬからなあ。どれ一つ頂こうではないか」
 柳皇子が笊一盛の龍果を求めると、赤也が恐る恐るそれを受け取った。
「緑の毛には毒などござりませんよね?」
「さあなあ。
 剥いてごらん」
 枇杷ほどの大きさがある果実を、赤也は恐る恐る一つつまみ、皮を剥こうとするが、何しろ勝手が分からないので、表面の緑の毛を毟るばかりである。
「赤い皮の部分に爪を立てて剥けば、白い実が見えるはずだよ。なに、見てくれは恐ろしげだが、味はライチと似たようなものだと言う。そんなに怖がることはない」
「それを早く言ってくださいよ。私が脅える姿が面白いのでしょう」
 そうして赤也が、ぐっと力を入れて実の皮を二つに割ると、中から出てきたのは白い実ではなく、突風と白い光だった。赤也も、流石の柳皇子も泡を食って、実を覗き込んでいた体をとっさに仰け反らせる。白い突風は、しばらくその場にくるくるととどまり、二人の前髪をめちゃくちゃにした。風の中から声が聞こえる。
「油断してはならぬよ二人とも。扶南の風は暑いぞう!」
そうしてから、目にも留まらぬ速さで空にぴゅうっと上っていって、密林の方へ消えてしまった。実ばかりが飛んでいってしまったので、足元に種がこつんと落ちた。突然の事態に、二人はしばし呆気にとられていた。
「今のも幸村先輩の仕業でしょうか?」
「さあ…。ただ、最後にあれの笑い声までもが聞こえたような気もする」
「恐ろしいお人だ」
「さて、次の龍果は普通のものだと良いのだが」
 そう言いながら、柳皇子は落ちた種を繻子の袋にしまった。
 その後の龍果は突風が吹き出ることもなく、甘酸っぱく豊かな風味の、果実そのものであった。



白い象

 密林ばかりを歩いていると、実は海と同様で、大して景色も変わらず、逆にその閉塞感に気も狂わんばかりになる。昼は確かに日が出ていると知れるのだが、高い樹木に遮られて、足元は薄く翳る。柳皇子一行は、もはや旅の目的もおぼろげになって、扶南よりただただ西へ進むばかりであった。
 柳皇子は日に当たれない体質である。日に当たってしまうと、昼間のうちは良いが、夜になると全身が赤くはれて、熱を出してしまうのだ。だので、平原で焼かれるよりは、日の弱い密林で蒸される方が、彼としても良いとは思うのだが、蛭や虻や蚋にその白い肌を絶え間なく攻撃され続け、時折襲い来る激しい雨に濡れられて、とくると、段々朦朧としてしまい、人間としてすっかり狭量になってしまう。  もう一月以上も密林をわたるばかり。食物には事欠かないが、果物や雨水で凌ぐには、いささか長い期間である。柳皇子も赤也も臓腑が慣れない水にやられて、腹を下したり虚脱したりとすっかり弱っていた。
「辛うございますね。柳さん」
「赤也の前で弱音を吐くのは、お前が不安がるだろうから私はしたくないのだが、なかなかこの盤盤とは辛い地域であるな」
「柳さんは、ずいぶんお痩せになりました」
「それにしても、暑い、暑い…」
 赤也は扶南に到着する前より、上半身の着物は取り去ってしまって、すっかり色黒に焼けたのだが、柳は肌を晒す方が暑いような気がすると言って、手首まで着物できちんと包んでいた。
「おや、痛い。また蛭が服に入り込んだかな」
「どちらでございますか」
「右の踝だ。すまない赤也、焼いてはくれまいか」
 柳皇子の常ならぬ泥の跳ねた着物の裾をめくると、確かに黒い蛭が吸い付いていたが、線香も火種もすっかり湿気ってしまい、容易に火を起こせないことが分かった。そうこうしているうちに、蛭は柳皇子の血をどんどん吸って、それに対して柳皇子は一層白く虚弱な様子となった。赤也は一生懸命蛭を取り払おうとするが、がっちり食いついてはなれる様子もない。もう太れないほどに丸々と太って、やっと蛭はぽとりと地面に落ち、いそいそと消えて行くのだった。
「柳さん、平気ですか?」
「ああ、ふらふらする。湿気にやられてしまいそうだよ…」
 赤也は柳皇子がこんなに弱ったのを見たことがない。泣きそうになってしまって、抱きかかえるようにして歩くが、付いて来るその足元のおぼつかないこと。
「いつも精市の所為で俺はこういう目にばかり合うような気がするぞ、精市め」
 もはや口にするのもうわごとである。
 と、密林の向こうに、日の降り注ぐ乾いた草原があるのが見えた。
「ああ、柳先輩。蛭の出ない草原がございますよ。あちらに出れば少しは気が晴れましょう」
「蛭がいないのは良いことである…」
 草原に出ると、確かに暑いことには変わりないが、密林の中のようなあのムッとした熱気はいくらか和らぐ。連れの者も、いくらか気分が晴れたようで、湿った衣類を乾かしたり、体を休めたりと、しばし休憩することとなった。
 赤也は、柳になるべく清潔な水分を取らせようと、椰子を探しに行くことにした。実の中に溜まった蜜に、持ち歩いている岩塩を溶かせば、滋養のある飲み物になり、貧血もいくらか和らぐと思ったのだ。柳を平たい白岩の上に寝かせて、傘を差しかけ、赤也はまた暑い森に分け入った。しかし、今までの道行きで散々見たはずの、椰子はなかなか見つからず、やっとその大きな実を抱えることが出来たのは、二刻もたってからだった。駆けるように戻ると、岩の上に寝た居たはずの柳はいつの間にやら転がり落ちて、草原の上で日に晒されていた。回りには供の者も居らず、赤也は仰天した。
「柳さん、柳さん、大丈夫でございますか?」
「赤也であるか?この火はどうやれば収まるのだね…」
 顔は真っ赤で、触れればひどい熱である。赤也は大声を出して供回りの者を集め、ひとまず柳皇子を木陰まで運び、棕櫚の葉などを持ち寄り扇いで、椰子の汁を飲ませたりした。しかし、一向にその赤みは収まる気配なく、夕方になっても夜になっても、柳はうんうん唸るばかりである。このままでは、命すらも危ぶまれるのではないかと思えた。赤也は、自分にできるだけの看病をしたが、あまりに苦しげな柳の様子に、思わず落涙してしまいそうになった。昼間、柳を寝かせた岩に座ってどうすれば彼が助かるかと、知恵を絞った。と、夜になっていくらは冷えていたはずの岩肌が、妙に暖かいことに気付く。
「昼の熱が発散されているんだろうか」
 赤也が不思議がって岩肌を撫でると、昼間と違って、どうもやわらかい。そして、極め付き、何だ何だと思う間もなく、その白岩がのっそり動き出した。赤也は、もしや、と思って声を上げた。
「幸村さんですか?」
 すっかり立ち上がり、赤也を背中に乗せたまま動き出した白い象は、何とも言葉を発しなかったが、その体からは、鳥人魚であった幸村がひり出した木の実と同じ香りがした。白い象は優雅に足を運び、寝かされた柳皇子の前まで歩いていった。長い鼻で、火照った頬を検分するように二三度撫でる。柳皇子はどうにか目を開いて、
「幸村よ、精市よ、来たな、来てくれたのだな…」
と言った。白い象は、前足を折って赤也を背中から降ろすと、そのまま柳皇子から三間ほど後ずさり、あれだけ巨大な動物とは思えぬ軽やかさで、飛び跳ねた。赤也も供の者も、どうなることかとじっと見守っていると、そのままどおんとすさまじい地響きをさせて象は地面に着地し、皆立っていられないほどだった。そのまま象は二度三度と、跳んでは着地してを繰り返す。赤也は尻餅を着きながらも、その様子をじっと見つめた。とうとう五度目に白い象が着地した部分がバシッとひび割れ、六度目七度目となると、その黒い割れ目はいっそう広がり、九度目十度目で、そこから清水が湧き出してきた。赤也はその奇跡に驚いたが、何しろ取るものとりあえず、手ぬぐいに水をしみこませ柳の額に置き、器にその清らかな滴りを受け止めて、柳の口に運んだ。こうなれば安心であろうか。だがしかし、柳は唸るばかりである。
「柳さん。何が苦しゅうございますか?熱が苦しいのは分かりますが、ほれ、清水が湧き出してございますよ。いくらか、涼しくはなりませんか」
「熱も辛いが、蛭に噛まれた後が、ひどく痛むのだよ」
 赤也が、着物の裾をめくると、確かに昼間に噛まれた痕が、紫色に腫れていた。
 清水を鼻で吸い込んでは霧状に撒き散らし、あたりを涼やかにしていた象は、その傷跡に気付くと、柳の着物を器用に鼻で脱がしにかかった。より涼しくさせようとの計らいか、と赤也は手を出さなかった。しかし、象は、柳を丸裸にすると、そこらの土と清水を混ぜ合わせた泥玉をぶつけにかかったのだった。
「おい!おやめ!やめてください!弱っている柳さんになんてことをするんだ」
 しまいに象は、鼻を使って柳を泥の中で転がしだした。柳は、もう、うんともすんともいわない。口や鼻はどうにか免れているようだが、髪といわず足といわず、もう全身が泥まみれで、されるがままにごろごろごろごろと転がされていた。赤也は止めようと必死に象の鼻へしがみつくが、象はびくともしない。
「柳さんが死んじゃう」
 柳は全身がもうすっかり泥濡れである。赤也は最後に渾身の力を振り絞ると、両足を踏ん張って、なんと象を持ち上げてしまった。だが、あれだけ重い動物のこと、それは一瞬で、すぐに地面にどすんと落ちる。しかし、白い象はその思いがけない怪力に面食らったようで、柳をごろごろ転がすのをひとまずやめたようだった。赤也は急いで柳皇子の元に駆け寄って、手で顔の泥を拭ってやった。
「柳さん、大丈夫ですか、どこかお怪我はございませんか」
 かたや、象は湧き出す清水の本に鼻を突っ込んで、一気に吸い込むと、思い切り二人に吹きかけた。滝のような量である。これもまた突然の出来事なので、赤也は面食らう。白い象はぶわんと一鳴きした。はっとして柳を見れば、全身の泥が綺麗に洗われて、発光せんばかりの白い体が横たわっていた。火に負けた赤みは面影なく消え去っていて、蛭に噛まれた後も認められず、生まれなおしたように傷一つない肌になっていた。
「おお赤也。やっと意識がしゃんとしたぞ。柔らかい絹に包まれたと思ったら、その後きりりと気持ちよい清水を浴びて、私はすっかり良くなった」
 赤也は、一糸纏わぬ柳に着物を着せ掛けるのも忘れ、ただ膝元において、喜ばしいことであると頬を撫でた。しばらくそうしていて、白い象に礼を言おうと振り向けば、そこには巨大な白岩が横たわるばかりであった。翌日、柳皇子はその岩を懐刀の柄で砕いて、幸村上人の御骨を入れる繻子の袋に一緒に収めた。



芥子色の虎

獅子国きっての港、多摩梨帝には、まるで吸い込まれるように着いた。流石の獅子国、そこかしこに新旧取り混ぜて見事な仏教施設が建てられているのだった。
「私も赤也も、帰依していないのが残念なばかりだな。しかし、とうとう天竺も近くなってきたことが窺い知れる。なんと盛んなことであろう」
「この旅すがらでも、多くの僧侶方が天竺をあくがれの地であると言っていましたしねえ」
「あちこちで死に掛けたり、騙されそうになったりと、ひどい目にあいながらも、大して迷わずにここまでやってきたのは、どういう計らいかと思うな。我々のような者にも御仏は目をかけてくださるのか、それとも幸村の、天竺行きたし、と言う強い執念のおかげか…」
「まことにございますね」
「仏教が盛んであるからして、天竺まで行かずとも、あいつの骨はここに収めればいいのではないかなあ」
「そんな適当な…」
「冗談だ。ここまで来たら私も、天竺の有様をこの目で見なければ、気が済まない思いであるからな」
 久々の大きな街であったので、二人はその人の多さが心地よく、くつろいだ気持ちになった。密林や海で削られた体力を癒すため、食料や人手を調達するため、しばらくここに滞在する手はずである。扶南の突き抜けるような陽気さとはまた少し違う、暑い国だ。
 ある夜、善意で部屋を借してくれている役人の部屋で柳が眠っていると、窓を破って、一頭の虎が舞い込んできた。柳はその立派な前足に驚いて、目を覚まし、隣の部屋で侍っていた赤也も、すぐさま柳の部屋も異変に気付いてやって来る。なにやら生暖かいものが柳の頬に振って来たので、手のひらでとっさに拭うと、生臭い匂いといい、月明かりで見た濃いい色といい、それは血であった。しかし自分はどこも痛いところがない。
「赤也、お前、怪我をして居るか?」
「いいえ。これからすることになるやも知れませんが、今はまだ」
「そうか。
 バカなことを聞くようだが、私の顔以外の場所に血が付いているかね?」
「柳さん、お顔を怪我されたのですか?」
「いいや、私の血ではないから聞いているのだよ。
 どうやらあの虎は手負いらしい。だとすれば一層面倒だぞ、気が立っていようからな。  ただし、殺したくはないのだ」
 虎は爛々とした目でこちらを見ている。その目は、幸村上人のものと似ているような気もするし、そうでないような気もする。ともかくも、柳皇子は何かの縁でここに逃げ込んできた虎を殺めることはしたくないと思ったのだった。柳より一回りも大きい虎は、部屋の隅でこちらを向いて、ゴオゴオと唸っている。
「喉元に矢が刺さっておりますね。あれを抜いてしまわないことには、どうにもなりませんが、近づくことも出来ず、どうしたものか」
「ならば待つまでだ」
 虎はずっとゴオゴオと唸っていたが、柳と赤也は、寝台に腰掛けて根気強く虎の気が治まるのをまった。もしかすれば、次の瞬間には二人ともに飛び掛ろうとするかも知れぬ猛獣であったが、柳皇子が暢気であるのと、赤也の豪胆さで、どうにか一刻を凌いだ。すると、虎も手負いである上に、ここが絶好の隠れ家であると感じたか、ひとまずゴオゴオの声をやませた。そこまでくれば、二人とも心得たもので、横になって知らん振りを決め込みつづける。虎は騒ぎ立てない二人に安心したのか退屈したのか、部屋の隅に横になってあくびを一つ漏らした。
 柳皇子が待っていたのはそこである。獅子があくびしそうになるのを見るや否や、枕元においた珊瑚の珠をぱっと取って、的確に虎の喉の奥に放り込んだのである。
「やりましたね柳さん」
 虎は最初何が起きたかと目を白黒させていたが、喉に詰まった珠を吐き出そうとしきりに首を上下した。すると、首に刺さっていた矢は、するりと抜けてしまった。
「良かったよかった。珠のおかげで矢が抜けたぞ」
 しかし、虎は喉の珠に驚いてしまって、吐き出す間もなく部屋の外に躍り出た。
「ああ、いけない!精市に貰った珊瑚珠と一緒に虎がどこかへ行ってしまう」
「追いますよ、柳さん」
 虎の脚力はすさまじいもので、夜の街をびゅんびゅん抜けて、山を越え、谷を飛び越えした。それを追う柳皇子と赤也も、なぜかその夜ばかりは虎を凌がんばかりの速さで駆け抜けることが出来た。虎を追って追って、すっかり街を離れても、虎は珊瑚珠を吐き出す様子を見せなかった。
「どうしましょう柳さん。いくら虎を追えるほど早く走れようとも、珠を返してもらえないのでは埒が明きませんよ」
「確かに、ずいぶん遠くまで来てしまった。もうここは獅子国ではないかも知れぬ」
 そこで赤也に妙案が浮かんだ。
「まじないをいたします」
「まじないと」
「ええ。幼い頃に、喉に魚の骨が詰まったとき、幸村上人にお教えいただいたのです。
 この謎掛けをすれば、たちどころに骨は取れて、すうっとするんでございますよ」
「よし、それをやってみてくれ」
 赤也は、しばしそのまじないとやらを思い出すように目を瞑ると、一つ息をついて、朗々と歌いだした。
「全ての人が通る道、半分の人が戻る道、我らに優しいその道の、中には何も留まらぬ、つるりつるりと滑っては、全てをさっさと送り出す、御倉の山の我々も、上所に居られるあの方も、川原に住んでるかの人も、ともかく皆が通る道、つるりつるりと滑り出す、そこには何も留まらぬ」
 赤也が唱えたわけのわからないまじない言葉は、柳の耳にはなれないものであったが。しかし、虎には大きな効果があったらしく、はっと立ち止まり、ぽっかり口を開けた。そこより、唾液に濡れた珊瑚球がころりと落ちる。虎は喉の痞えが取れると、先ほどの逃げるような足取りからは一転、大そう軽やかな身のこなしで、西の方へ消えてしまった。
 さて、気付けば、赤也も柳も、どこかの荒野にたどり着いていた。



黒い大猩猩

 天竺まであと一息のところであるのに、虎を追って以来、二人はどことも知れぬ荒野を彷徨うばかりである。ただし、紆余曲折あった旅の道行きを思えば、最初の頃のように赤也は騒ぎ立てたりもしないし、柳皇子も、大して道を焦ろうという気は全くなかった。ただし、何しろ荒野である。共の者ともはぐれ、食い物もなければ水までもない。いくら慌てても仕方がなくとも、何とかしなければこのまま二人で野垂れ死にである。
 柳は懐より、珊瑚の珠を取り出した。
「ほれ幸村よ。このままでは私も赤也も野垂れ死んで、お前の骨を納めてやれないぞ」
 いつも何かと二人を助けてきた珊瑚の珠は、柳が話しかけても、うんともすんとも言わなかった。しかし、柳皇子はそれを心得ていたかのように、さっさと珠を懐に仕舞ってしまった。
「ひとまず赤也、死にたくはないからな」
「確かにそうではござります」
「幸いここにはかろうじて草が少しばかり育っている。この草の筋を辿って行って、運がよければ水のありかに行き着こう」
「ええ、草は水脈に沿って生えているでしょうからね」
 後は二人とも黙りきりで、草の道に沿ってひたすら歩くばかり。飲まず食わず、口寂しくなれば、その草を毟って口に含み、どうにか凌ぐしかない。死に物狂いで二日間彷徨った末、遠くに水が揺らぐのを見た赤也は、柳にようやっと話しかけた。
「あれは湖でござりましょうか」
「さあなあ。ここで喜んだ挙句、あれが蜃気楼であったのならば、なんとも悲しい気持ちになろうが、今は信じて進むしかないか」
 二人とも、すがるような思いである。追って消える蜃気楼でないようにと祈りながら三刻歩いても、湖は消えてゆかず、二人は深く深く安堵した。
 しかし、さらに湖に近づけば、奇妙な様子が見て取れた。
「黒い法衣を着た僧らが、並んでおりますね」
「ひどく面妖であるな。まるで私たちを待っているようではないか」
 二人がそのオアセズに近づけば、一列に並んだ黒い法衣の僧たちが一斉に頭を垂れた。まるで、何もかも分かっていて、二人を待ち構えていたようである。二人の僧がそれぞれ透明な器に並々と水を湛え、柳と赤也に差し出した。二人は、礼を言ってそれを受け取り、同時に一気に飲み干した。染み渡る潤いに、深く深くため息がつかれた。僧たちは皆一様に静かな面持ちをしており、動きは上品で、一言も言葉を発しなかった。一人の僧が柳と赤也を促すように歩き出した。清き水を鏡面のように湛える湖の後ろには、いつの間にか青々と茂る山が盛り上がっており、その山の中心を割るように、まっすぐ頂上まで続く石階段が伸びていた。二日間も荒野を彷徨っていた柳と赤也であったが、その階段を登る足はひどく軽やかで、体も心も全く疲れておらず、頂上に待つものの様子も何一つ心配なく心に描けるのであった。頂上に着くと、まず本堂が聳え立ち、黒衣の僧に付いて伽藍に回ると、そこに会うべき者が待っている。赤也がゆっくりと伽藍の扉を開け、柳を前にして二つ三つと奥の部屋へと進んでゆく。
 奥の部屋には、今までの旅で見た全ての花が咲き、ありとあらゆる鳥の声が聞こえた。ここまで先立ちしてくれた僧よりも一回り大きい僧が、そのありとあらゆるもものの中に、一人静かに佇んでいる。それは今まで見た何者よりも優しく、思慮深く、そして哀切に満ちた目をしていた。それは巨大な黒い猩々だった。柳皇子も赤也も、口にすべき言葉は何もなく、ただその大猩々の佇まいを瞳に移すばかりである。柳がやっと気付いたように、懐に手を差し入れて、猩々に一歩近づいた。
「これを、わたくしの友人より、渡すように頼まれてまいりました。長の旅でいくらか傷が付いてしまいましたが、どうかお納めくださいまし」
 そう言って、珊瑚の珠を差し出すと、大猩々は上向きにして優しく包むような手を柳に差し向け、すんなりとその珠を受け取った。そしてそれと引き換えに、目玉ほどの大きさの、肌色をした種を差し出された。言葉はなかったが、柳と赤也に深い感謝を示したことが感じられた。柳は両手でその種を受け取り、胸元で大事に握り締めた。
 山を下りる階段で、赤也はしきりに感心していた。
「珊瑚玉の行き先は、あの御方のところだったのですね」
「きっと、幸村の師であろう。私たちが、今日、今、ここへ赴いてくることもご存知であったのだな」
「しかし、幸村先輩の御師が大猩々であったとは…」
「何、姿ばかりが頼りとは言えぬこの世界、物事の場合によって、魂を包む入れ物はいくらでも変容しようぞ」
「確かに、柳さまも旅の前は白髪であられましたのに、南に行くにつれた若々しく黒髪に、肌もぴんと張ってございますもんね」
「旅には旅に相応しい姿が必要だと、人の体はよく知っているのだよ。赤也も、ひどく小さな童子であったのに、今は大きな鳥のように立派な青年であろう?
 そういうことなのだよ」
 そうして、もう二人は何も言えず、ただ、あの吸い込まれそうな黒猩々の目を思い出すばかりであった。そして、麓に着けば、そこがもう、天竺の地である。



終わりに

 とうとう着いた天竺で、柳皇子は幸村上人の御骨をどうするかと思えば、絨毯みたいな茶色の川に、ぽーんと投げ込んでしまわれた。
「よろしいのですか?どこかしらの寺院にお納めするとか、御唱題を頂くとか、そのようなことはなさらないのですか」
「よかろうよかろう。赤也だってそう思うだろう?」
「まあ、そーすね」
「なあ。そもそもあいつは坊さんなのだから、自分の経ぐらい自分で唱えるさ。
 何しろ、別に幸村は、自分の骨を天竺に納めたくて私に探させたのではないことくらい、もう赤也もよくわかっているだろうし、私はいくら勉学を重ねようと、結局友の死が悲しいのだよ」
「俺も、幸村先輩が居なくなるのは悲しいっす」
「なあ。
 こんなに長い旅をして分かったことは沢山あるようにも感じるし、本当に僅かばかりのような気もする」
「たしかにそうですね」
 日が暮れそうな優しい時間である。川沿いの道行く人々の顔はおぼろげで、赤也と柳も、お互いの顔が優しく翳り、目をくらますような曖昧さがあった。幸村上人の御骨を収めると言う目的は果たしたはずなのに、心にはちっともやり遂げたという空虚な思いはなく、むしろ、今から始まると言う予感が大きかった。お互いがお互いを、ひどく頼もしく思えた。赤也は若年者の素直さで、柳に一つ告白をした。
「ところで柳さま、この旅が終わりましたら、入内されますか?私からは離れてゆかれますか」
「どうしたことだろうね」
「どうか、私の傍に居ては下さりませんか。部屋をまいにち良い香りにして、貴方のお好きな静かなお食事も用意して、そうして、暮らせるようにいたしますから」
「まあまあ、これは、驚いた。お前は人一人背負おうという気概があるのだな。
 なんと力強く活力のある青年となったことだろう。その気概は、女生にとってお置き」
「どうか、そんな、ひどいことを仰らないでください」
 やわらかい夕暮れの中で、柳のからかいを真に受けて、赤也は幼子のような涙顔になる。柳は一つ嘆息した。
「まあ、実際に困ったことと言えばだね、我々は、ここよりあの恋しい御倉山へ帰らねばならぬのだよ」
 しかし、この上なく穏やかな顔である。
「きっと、帰り道の方が過酷になりましょうな」
 そうである。行き道には帰り道が付き物なのだ。柳は心が躍るようだった。
「お前の申し出は、その帰り道すがら考えることにするよ。
 お前だってそうした方が良いと思うに違いない」
 日はまだ辛うじて沈まない。何もかもが天鵞絨のようである。様々な思いが募る。
「さあ、また長い日々、柳さんと一緒なのですね」
「そうだよ、焦って決めねばならぬことも幾つかはあるが、これはゆっくり考えた方が楽しいに違いないからね」
 沐浴する人々が、黄色い光に照らされて、川面に映っている。それがゆらゆら揺れて、なんとも長閑な夜の始まりであった。
















2007 「とおりゃんせ」収録
2013.10.31 サイト再録











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