みみくいみづき
観月が聖ルドルフ学院にやってきた経緯についての良からぬ話をいくつ聞いても、赤澤はそれを信じもしなかったし、そしてまた、否定しきろうともしなかった。自分が確かだと思う話を聞くまでは、彼のうわさはすべて本当な気もしたし、すべて嘘のような気もした。彼が入部したテニス部はともかくとして、聖ルドルフ学院においての観月はずっとよそ者であった。そして観月も、自分自身をつまはじきものとして良しとしているようなところがあった。ただし、観月は生徒たちの中から放逐されるというヘマをやらかしたりはしなかった。観月は年頃の生徒たちの中から行いが明らかに浮いていたが、それと同時に模範的であったので、そうして折り合いをつけているのだった。赤澤が、ここまでやってくるまでの観月の経緯についてたずねたのは、観月がそつなく振舞っており、赤澤はまだまだ無遠慮なほどに無邪気であったからだ。同じ部活動、同じ学年、さらには聖ルドルフ学院が所有する寮で同室になり、いくらかの寝食を共にしたこともあって、赤澤はもうすっかり観月となにもかも打ち解けた気分だった。
「みみくい」
と観月が言った。赤澤は耳慣れない言葉がとっさに聞き取れず、彼が「醜い」と呟いたのだと思った。そして思わず身体が冷えた。
観月がこのように直截に何かを批判する言葉を吐くのは良くあることであった。しかし、赤澤はそのような観月の露悪的な部分に慣れることがなかった。観月が手酷く他人を批判するのを聞いていた赤澤の耳が痛くなかったことが無いし、観月が観月自身を卑下しているのを聞いたときはなおさらだった。そのように他人や自分を貶めて良いことがあるとはどうしても赤澤には思うことが出来なかったし、観月にとっても良いことがないと思えたからだった。
赤澤は他人を悪し様に言い尽くすような人間がそばにいる環境に育って来なかったので、観月のまぶたが歪み、その後、棘を生やすために彼の胸が空気を吸い込み膨らむと、反射的にいっそ観月が憎らしいとすら思った。その次に唇から紡がれる言葉を思い、そして彼の口を手でぴったりと塞いでやれないかと思った。それは、自分のためでもあったし、観月のためにもそのほうが良いような気がしてならないからだった。端的に言えば、観月はもっと自分を愛してよいと思うのだ。または、赤澤が気づけないだけであって、観月の心の中では彼が彼自身をきちんと愛し、尊重しているのなら、それを掻き潰すような言動をするべきではないのだ。
そこまで考えたところで、赤澤は自分の独善的な思考にはたと気づき、またひとつ潜るように機嫌を悪くした。赤澤が観月に良くあって欲しいと思うのは、人々に対する普遍的な慈愛や奉仕の心からではなく、観月に対する己の理想や欲望がそうさせるからであった。赤澤自身にはその二つの差が良く判らず、もしかしたら傍から見たときは同じものだと思われることも多いのかもしれないが、とにかく、自分の観月に対する気持ちは、毎週日曜の朝に拝聴する説法や、毎週水曜日の放課に響く歌声に沿うものではないような気がした。あのように透徹して、シンプルに丸く完結できるものではなかった。 素直で単純である、というのは、とてもすばらしく、効率的なことである。たとえば、赤澤にとって何かが上手くいったり、すべてが落ち着くべきところに落ち着く心地よい事態というものは確かに賛美歌に近かった。とても美しく勝てた試合というのは何もかもがとても単純であることが大抵だ。来たボールを素直に打ち返し、踊るように空いているスペースに打ち込む。黄色いボールは心地よく流れていき、むしろ勝てたことの余韻が無いくらいだ。対して、複雑な均衡の上にやっとの思いで勝ったり負けたりする試合というのは、いつだって恐ろしい。赤澤の観月に対する思いやりのようなものは、いやな予感を孕んで、未熟で懼ろしい予感をさせるものだった。
「醜い。何が」
赤澤は、観月の呟きを聞き流してやることも出来なかった。観月はこのように自分の発言の内容を確認されるのを嫌った。彼が望むときに手を差し伸べるのはあまり上手くいったことが無いのに、このように、気まずい時に限ってどうしても彼を不快にさせることを言ってしまう。解っているのに、どうしても観月を揺らしてしまう。
「違いますよ」
赤澤の予想に反して、観月が眉をしかめることは無かった。
「え」
「みみくいって言ったんですよ」
「え」
「みみくい。
僕は、こちらに転向してくる前の学校で、みみくいとあだ名されていたんですよ。最後のほうに」
観月の言葉が、聖ルドルフ学院やってくる前にいた学校から追放されてきたという意味合いを持っていることを赤澤は感じた。その四文字の並びはそっけなく、しかし確実に耳障りだった。
「意味は」
「はい」
「みみくいの」
「ああ、ええ。みみくいの意味ね。
べつにね。
そのままですよ。
同級生の耳を食ったんですよ。
僕は。
前の学校でねえ」
赤澤はそう言ったときの観月の顔を思い出せない。たぶん、観月の顔を見ていなかったからだろう。
「お前は」
「ええ」
「お前が」
「何」
「耳を」
「ええ」
「ちょびっとだけね。
ほんの少しだけ耳を食いちぎってやりましたよ。
僕は、一人の男子にひどく攻撃されていて、ぜんぜん理由もわからずに。
いじめではありませんでした。たぶん。あれは。
でもね、ひどかったです。ぶったりけったり。中学生にもなって。
あんまりでしたからね。
本当に。
ひどいもんでしたよ。今思うと。
もっとしっかり怪我させてしまったって、僕は怒られなかったんじゃあないかなあ。
ええ。ええ。本当にねえ」
赤澤は、もうどうしようもない、と思った。そして観月に「本当にそんなことをしたのか」ともう一度訊いた。
「あー。あー。いえね。いや。
飲み込みはしませんでしたよさすがに。さすがにねえ!
何しろね。あんまり綺麗な話じゃあないですけどね。
奴の耳ったら、苦かったんですよ!なんもかんもがお粗末な話ですが、ひどいでしょう。
綺麗に洗ってない耳って言うのは、垢ですかねえ。苦いんですよねえ。そのせいで」
「お前、そんな大変なことがあったのか」
「ええ。まあね。
大変といえば大変でしたよ本当に。
あっちもこっちもおお騒ぎでしたから。
でもほら、今を思えばラッキーとも取れるかなあなんてね。プラス思考でね。
あの、狭い、ひどい鳥籠からおかげで抜け出せたわけですしね。
まあね。もう限界でしたしね。僕も、周りも。
だから、起こるべくして起こったというかね。必然ですね。仕方なかったって誰かは言いましたよ。何でこんなことに、って言った人もいたけど。
相手はともかくとして、学校の中で問題を起こして、周りを騒がせたことや、人の家の息子さんに怪我を負わせたことは、悪いことだと思って、今でも忸怩たる気持ちにはなります。あまりその気持ちにばかりとらわれては、良いことがないとお医者様に言われたので、気をつけてはいますが。
とにかくね。そんな話しなわけですよ。
訊かないほうが良かったでしょう。
いや、話したところでどうだというわけでもない、と思うようにしていますけどね。僕は。
ろくでもないですからね。
耳汚しですよ、まさに!」
観月は美しい少年だった。これからしばらくは美しい少年でいるだろう。健康的に痩せていたし、しかし頬なんかは年頃らしくふっくらしていて、目も大きく、人の注意を引く顔立ちをしていた。そしてなにより、他の少年たちとは、「しぐさ」が一線を画していた。好意的に言うならば、良く躾けられた丁寧な手の動きと、騒々しくない身振りで優雅な雰囲気がある少年であった。そしてまた、彼をあまり好きではないと感じる人間が言うならば、女のようで気持ち悪いほどに優しげな身のこなしの少年であった。ともかく、観月は糸の中に混じった髪のようにぬるりと光り、目に触る違和感を兼ね備えていた。
観月の語るところによるとこうだ。
観月をまさに目の敵のようにする少年は、テニス部員だったらしい。入部以来、なぜか観月にばかり辛く当たった彼は権力を持った少年で、とても居丈高であった。活発な遊びをする男子生徒が作る輪の中ではよく目立ち、発言は尊重されていた。一つ学年下のまだ小さな男子にかまいつけると言うのは、本来ならば生徒のグループの中で彼の存在を貶めかけない、馬鹿らしいことだったに違いない。しかし、観月のことは、人の居ないところで徹底的に小突き回し、暴力なども時々あった。
「痣なんかをつけられたなら、僕はすぐにでも彼を告発しようと心に決めていましたが、その点、彼は非常に上手くやりました。
いやな感じでしたよ。ねちねちと、弱い力で何回も蹴りつけたりなんかして」
「しかし、いい加減うんざりしていたところで、この学校から声が掛かったのです。
僕はあの頃から、いっそ、なんか、彼のことを哀れだと思っていました。
小さな後輩をいじめることが気晴らしだなんて、かわいそうです」
観月は、自分が出て行く場所のことに関しては、過ぎ行くものとして、あまり波風を立てないようにしようと決心し、なるべく被害少なくなうるようにあしらって、そのまま静かに転校するつもりだった。
「けれど、学校の掃除の時間に、僕は彼に無理やり体育館まで引っ張っていかれたんです。
体育館のステージの、緞帳を動かして掃除をしなければならなくて、独りでは無理だから、僕に手伝えと。
彼は、僕が小さくて力も弱いから、役立たずだけども仕方がない、と僕のことを馬鹿にしました。
それでも、彼は。僕を手伝いに呼んだんですよ」
掃除の最中も、その生徒は、観月をののしり、箒に付いた埃を擦り付けたりして嫌がらせをした。観月はもういっそ、あきらめの境地で、言われたことで、してもかまわないと思うことだけを手伝った。
「僕はもうね、髪の毛とか、埃だらけで腹が立ってしまって。堪忍袋の緒が切れる!っていう。
気が付いたらこめかみがとても冷たい感じになっていて、ああ、僕はもう、怒ってしまって我慢しきれなくなったんだなあ、と自覚しました」
我慢ならなくなった観月は、男子生徒に自分がここからいずれいなくなることや、そうなるといじめる相手がいなくなって相手が気の毒であると思う、あなたは幼稚で哀れな人だ、と言うようなことを告げた。観月自身が思い出しても、その自分の様子はとても厭味ったらしくて、確かに相手の神経を逆なでするような言い方だった。
「そうしたら、相手はひどくうろたえていて、ろくにしゃべりもしなくなりました。
僕は、最初、とても清々した気持ちでしたが、すぐに、それは間違ったことであると気づきました。
黙りこくっていた彼は突然、下ろされた古い緞帳の上に僕を猫みたいに放り投げて、そして、殴りかかってきました」
観月は、最初、ひどく蹴られるか箒ではたかれるかするだろうと観念したけれど、目の前に男子生徒の上着がたれかかってきて、視界が奪われたことにもっと驚いた。
「彼は、確かに僕を良くいじめましたが、そんな風に、喧嘩みたいに、僕のところに降りてきてまで、僕に何かしてやろう、と思う人ではなかったようですから、取っ組み合いを始めようとしたのにはとても驚きました。意外でした。
垂れ下がってきた上着に縫いつけられたプラスチックの名札が目の中に入りそうになって、とても腹が立ったのを覚えています」
名札を縫い付ける糸は学年ごとに指定されており、生徒の上着に使われていた赤い糸は観月からひとつ上の学年であるしるしだった。観月は慎重に機会を見計らいながらも頭の別の端っこで、その糸がほつれているのを見るともなしに見て、その不仕付けが気になってしょうがなかった。もしこんなことになっていなければ、自分が縫い直してやってもかまわない、と思うくらい、観月にはその糸のほつれが気になって気になってしょうがなかったのだ。細い赤い糸の端がほぐれて、無様に飛び出しているのが、あの日のことで一番思い出しやすく、覚えていることだった。そして、大騒ぎしている現状とは別に頭の中で、結局、自分にとって、今まで経験してきた大きな物事の数々は、そういうことに過ぎないのかと思った。
「僕にとっかかってきた彼は、自分が何をしたいかはわからないようでした。
確かに僕を押さえつけはしましたが、その後に戸惑っているのが僕には感じられました。
抵抗したときにぶたれて、恐ろしいと感じましたが、何よりもまず彼を持て余しましたね。僕は。
きっと彼も自分を持て余していたんじゃあないかなあ。
言ってしまえば、性欲ですね。性欲を持て余していたんですね。あは。
僕は、女のようだと言われることが多いですから。気が迷ったのでしょう。
きっと彼が、もう少し、そう、あと二年か三年かのほんの少し。
それくらいね、年かさだったならね、僕を犯そうとしていただろうと感じます。今ね。
彼は僕の腕を押さえて、初めて僕の顔をしっかり見て、何かに気づいたような顔をしましたから。
彼は僕にキスをしようとしました。
でも僕はそれを避けました」
観月は、スイングするようにそう話した。
殴られた痛みや、相手の息巻く様子、重くて熱い身体や、古い油に似た緞帳のビロードのにおいも、最後にはあの撚られた赤い糸に収束していって、布目からぴょこんと飛び出して、曖昧に途切れていくだけなのか、と観月は思う。だとしたらあんまりだと思えたが、少し考えて、別にそればかりではないか、とも思った。曖昧に途切れて、いつの間にかそれが消えてくれるのなら、それはそれで在りがたい話だ。しかし、観月が経験したことや、思ったことは、糸ではないから途切れたりもしないし、なくなりもしない。これが業を背負うということなのかなあ、と観月は口をあけて歯をむき出した。彼はその時、あんまりに独りきりだったので、自分が孤独だとは感じなかった。相手の耳の産毛が唇に当たって、その後、思い切り押し切るように犬歯を食い込ませると、塩味と苦味がした。
不快であったが、決心して、できるところまで力を入れたら、思ったよりも早く血の味がしたので、その攻撃が速やかに終わりそうであることを感じ、ありがたいと思った。耳の軟骨に当たった犬歯を、外側に引っ張ると、段を落ちるように骨を滑って、肉が少しだけ歯にくっついてきた。不快であったので、血も、わずかばかりの肉も、すぐに吐き出した。血が出た、と言うのは、観月にとって、相手を叩きのめしたわかりやすい印だった。
観月は曖昧なものを許しがたいとは思わないが、明快なほうをより好ましく思った。その点において、観月はいっそ断罪的なほどだった。それは彼の潔癖症に由来している部分が多く、出来るか出来ないかをはっきりさせることに彼は腐心する。曖昧なものはそのまま彼においては傍から見ていて心配になってしまうほどに関心の対象外であった。観月は曖昧なものの中にある種を見つけようとはしなかった。時間をよく守り、規則を遵守し、虚礼を嫌わなかった。様式だったものは彼をひどく安心させた。それは彼にとってブレザーの襟の丸みのように優しいものだった。
「怖かっただろう」
赤澤は、観月にそう確認することによって、今まで彼がなんでもないことのように捕らえようとしていたことを、怖ろしいこととして再認識させてしまうのではないかということを恐れたが、しかし、また逆に、そうあるべきではないかと素直に思った。
「そう言われればそうですね。
でもまあ、僕ははなっから大きな声を出していましたし、耳を齧られた相手はもっと大きな声を出していましたから、体育館に人がすぐ来て、何やってるんだ、ってことになって、あとは、まあ、怒涛の如くここまでやってきましたから。面倒くさいことばかり!
それにしてもね、なんだかあれですけどね。
普通、こういうことって、暗い狭いところでやられたりするもんじゃないですか。トイレとか、それこそ体育館の倉庫とか。だけど、体育館のステージの上でしたからね。
田舎の学校でしたから、土地は広かったです。だから体育館も、中学校にしては広くて、ここのより広かったかもしれない。そんな広いところのステージ上ですよ。
間抜けですよ。客もいないしね。本当にお笑い!
ええ。でも。
そうですね。怖かったですよ。
怖かったに決まっていますよ」
「観月。
そうじゃなくて」
「何がです」
「観月、俺はしょうも無いことを言うのかもしれないけど」
「どうぞ」
「俺は、お前の、いろいろと、きちんとしたところが好きだし、ちょっとやり過ぎってくらいの模範的なところもとても好きだ。
いや、あー今のは、別に、お前を侮辱しようとしたわけではなくって」
「気にしませんよ」
「つまり、あれだ。
えー。
そう…。
そう…。
そう、お前はもっと、俺に、辛いということを伝えたってかまわない、と思うんだ」
「だから伝えているじゃあないですか」
「じゃなくって」
「何が気に入らないんです」
「気に入らないわけじゃない」
「僕は聞かれたことにきちんと答えましたし、嘘だってついていませんよ」
「そうだけど」
「じゃあこれでいいじゃあないですか」
「そうだけど」
「何!」
「そうじゃあないだろう」
「何!
お前は。俺が。
僕が。
そういう風に、赤澤がそういう風だから僕は…」
観月は五秒くらい赤澤を見た。実際のところは、もっと短い時間だったが、赤澤にはそれくらいの長さに感じられた。そして、うつむいた。赤澤は、自分が余りに下手くそなので、観月がすっかり呆れてしまったのだろうと思い、いつも思い通りに行かない自分の慰めを、恥ずかしいと思った。
観月はどこへ行くのだろう。そこへ自分は行けないのか。とても行けそうにない。赤澤はそう感じる自分が何よりも貧しいものだと思った。観月の歩む、黄昏た道がある場所は赤澤にはあまりに遠かった。赤澤はいっそ憧れのような気持ちで観月の孤独を思った。観月がいとおしかった。赤澤は、自分の心が、観月への曖昧な気持ちで満たされ、溢れるのを感じた。もどかしく、恐ろしかった。何もかもが上手くいきそうにない予感を孕んでいた。
その夜、赤沢は観月の自慰を見た。観月は赤澤に見られていることにすっかり気づいているようであった。赤澤は、観月がこちらに気づいているということに気づいた瞬間、彼は頭がおかしいと思った。まず、同じ年頃の少年が、友人に自慰を見られるのにためらいを持たないなどということが有り得べからざることだったし、またはためらいを持っていたとしても、気にせずに自慰を続けるということは、明らかに、投げやりなほどに、人間関係に対して「雑である」と感じられた。そして何より、今日、あんな話しをした後で、あからさまに性的なものを身近に引き寄せるのもおかしいことだった。観月の自慰は異様であった。少なくとも赤澤にはそう感じられた。彼は、うつ伏せになり、足をまっすぐに伸ばして、クランクのような動きで身体をゆっくり揺らしていた。赤澤が目を覚ましたとき、何かにはっとしたと感じたのは、その一定の物音にだった。観月の身体はわかりやすく揺れていて、赤澤自身も自らが同じリズムを持ち合わせているから、すぐさま観月が自慰をしているということはわかった。そう知ってから赤澤はまず、迷惑だ、と感じた。
聖ルドルフ学院の男子寮において、自慰をいかに隠密に済ませるかは多くの生徒の関心ごとだった。二人部屋を基本としている中で、いかに相部屋の友人に悟られずに「こと」を済ませるかだとか、夜中トイレにこもろうとしたときときに先客がいて、困り果ててしまっただとか、そのような話は多く皆の口に上り、しかし実際の仕事の多くは隠微に済まされた。いくら人が集まる中で猥談に励もうとも、実際の自慰を人の目に触れさせないのは一種の礼儀であった。例外としては、ひとつの部屋にあつまってアダルトビデオを見るときだとか、もうお互いに宣言しあって、自慰を見せ合うなんていうこともあったが、赤澤は観月とそんな遊びをしたことは無かった。
なので、事前の示し合わせもなしに、明らかに自慰とわかる行為を臆面も無く同室で行う観月に赤澤はうっとうしさを感じた。赤澤は少年らしく、その行為にひどく罪悪感を感じることがあった。猥談はかまわなかったが、実際のこととなると、隠しておくべきだと強く感じていた。
赤澤は、気恥ずかしさと、若干の怒りをこめて観月を見た。観月とお互いを認識しあう気まずさの可能性を思っていなかったわけではないが、何しろ彼は仕事に夢中と見えたから、油断と眠気で特に考えもなくなっていた。そして観月と目が合った。赤澤は自分の心臓が冷たくなったと感じた。
観月はうつ伏せになり、足をもう伸びきらないというほどにピンときつく伸ばし、右手を前からではなく尻から股間に差し入れてゆっくり動かしていた。どのように性器を触っているかまでは、赤澤にはわからなかった。観月は特に呼吸を荒げるでもなく、集中半分、恍惚半分といったところで、深く呼吸し、息を止めることを繰り返していた。時間は長かった。とても冗長に、自らを慰めていた。
赤澤は、目が合った途端に、瞬く速さで自分の目を閉じて観月の目を遮ったが、いつまでも彼が自分を見ている気がしてならず、そうに違いないと思い込むのを止めることが出来なかった。様子を伺っていると、観月は達したわけではないようだった。
赤澤は、聖テレサの法悦像を思い出し、あまりにひどい自分の連想に、様々なものへの献身や誠実が損なわれたことを感じ、少々悲しくなった。
しばらく息を潜めていると、観月が立ち上がる物音がして、赤澤は状況が変わったことに非常にほっとした。しかし、観月の足音はだんだんと自分のベッドに近づいてきて、スプリングがゆっくり沈むのを感じたときには、もう彼の限界だった。
「なっていませんね」
観月はそう言って、赤澤のベッドに腰掛けた。そして、ブランケットが掛からず、むき出しになっていた赤澤の足の裏をなでた。赤澤は恐ろしくなって、身体を硬くして、彼がもうひとつ何かやってきたとしたら、すぐに硬く反撃できるように息を潜めた。しかし観月はじっとしている赤澤を見ると、少年らしい気まぐれさですっかり飽きてしまったようにベッドを離れ、部屋を出てしまった。洗面所に手を洗いに行くのだろう。
このように、複雑なものは耐え難い。赤澤は泣きたくなった。実際のところ、少し涙は滲んでいた。ベッドの観月が座っていた部分が抉り取られたようだ。
赤澤は、どうがんばってもその翌朝には観月に対して心を許すことができなかった。彼がここまでやってくる前の出来事の話や、夜の自慰の件が、赤澤にとって明らかに手に余る事件だったからだ。ただし、赤澤は、とても単純に観月のことを信じている部分も持ち合わせていた。その二つの間で、赤澤の心は揺れた。観月は健気な友として愛おしく思えるときもあれば、見知らぬお化けのように得体の知れないときもあった。物事の分かれ道と言うのは、こういう時だと赤澤は感じた。このまま、観月との友愛が繋ぐ関係を手放そうとしたらそれはたやすいことだと言うのは予想できた。なぜなら、今朝、観月のほうが見られずに、逃げるように食堂に向かった赤澤を見ていた観月の表情は、確信に満ちたものだったからだ。まるで、ほら見たことか、と言わんばかりであった。しかし、赤澤は、おおらかで無邪気であったが、愚かではなく、気付きがない少年だというわけでもなかった。観月の一連の行動は、彼の意地っ張りな露悪主義に基づいたものだと言うことぐらいはわかっていた。そして、観月のほうも、赤澤をすっかり遮断してしまっていたわけではなかった。もし、赤澤が自分の面倒な部分に踏み込んでくるようだったら、嬉しいとすら、心の底のほうでは思っていた。
赤澤は、三日ほど観月と距離を置いた。気持ちを落ち着けるにはそれぐらい必要だった。
「観月。今日、夜、話しをしようか」
赤澤は、部活動からの帰り道、そう観月に切り出した。観月は
「いくらでも」
と答えた。その時、観月は、赤澤のほうを見ることが出来なかったが、深く、心底、ほっとしていた。
赤澤を見ることができなかったのも、複雑な理由からではなく、自分に寄せられた真剣な目線が、嬉しく、気恥ずかしいからだった。
聖ルドルフ学院の寮は毎週水曜日、各自の部屋を掃除をすることが定められていた。点呼が行われる夜十時に寮監によって検査が行われ、ペケをくらえば、木曜にもう一度チェックだ。赤澤は、部屋を美しく保つのを得意とはしなかったが、定期的な検査と、観月と同室であることによって、そのような規律をどうにか持続的に守ることができるようになっていた。寮で行う掃除の習慣は、部屋を綺麗に保つためと言う理由でもあったが、一種の労働として義務づけられ ていた。道具はいつも一つ所に整然と収めることが規則されている。掃除の時間は夕食後の七時から七時半と決められており、三十分間の定められた時間内は大声で話すことが禁じられる。観月と赤澤は粛々と部屋を清める。最初、赤澤はその習慣をひどく面倒くさいと思ったが、観月は本当に誠実に掃除に取り組んでいたから、不貞腐れるのも恥ずしいと思い、彼に倣って掃除だけはきちんとこなすようにした。赤澤はさまざまな条件の下に聖ルドルフ学院に在学しており、教義のため学校にいるわけではなかった。洗礼も受けていなかったし、クリスチャンとしての信仰心もほぼ無かった。しかし、観月と掃除をしていると、規則正しく整え健やかにあれという生活も、確かに悪くないものであると感じられた。ただし、そんな気持ちは、掃除が始まって五分までではあるが。
観月は、掃除を愛する少年であった。彼が愛しているのがキリストなのか掃除なのか、または実のところどちらも愛していないのかも知れなかったが、見る限りではおざなりではなく、毎週本棚を動かしてまでその裏の埃を払うような掃除好きであった。観月は自分の身の回りの生活に対して、とても繊細に気を払っていた。その様子があまりに健気で懸命なので、赤澤は自分が思うほど彼が諦めてしまっているわけではないことに気づいた。観月の生活に対する正しさや、学校に対する生真面目さは、神経症らしい彼の性癖から来るものともいえたが、何よりも育ちや信条に裏付けられた彼の根本だと思われた。観月は真摯であった。
「緞帳の話し」
規則に従って、大きな声であからさまに話すことができない。赤澤低い声で観月に切り出した。向かい合って話しつくす勇気はなく、かといって放り置くことはできなかった。なので、一日の中で一番観月の気が紛れている掃除の時間を選んだ。
「ああ」
観月は棚の上の埃が美しく払われているかを見極めながらも、若干の緊張で赤澤に応じた。その緊張は、赤澤にも伝わっていた。
「あれ」
「うん」
「僕ね、あれね、怖かったんですよ」
観月は、自分で手ずから買ってきた棚掃除用の刷毛をそのまま机に置き去りにした。
「ああ、もう、窓をすっかり開けてしまったほうが良いですね。薄いほうのカーテンも開けてしまいましょう。季節柄、乾燥し始めたからですかね。風も強いし、なんとなく部屋の中まで埃っぽくはないですか」
彼は窓を全開に開け放ち、網戸も横へ仕舞った。サッシュの音をさせないように、静かで、順序を踏んだしぐさだった。外はすっかり暗く、秋の夜の風は素直な冷たさだった。
「観月」
「ええ」
「前の学校の」
「そう。あの話しね」
「観月」
「うん」
「そうか」
「やっとです」
「観月」
「やっと、こう、言えますね」
観月は赤澤の肩の骨の先のほうに、額の真ん中を硬貨ほどの面積だけ寄りかからせた。頼ると言うにしては、あまりに礼儀正しく、遠慮がちであった。赤澤は、自分が持てる決心や勇気を、今使わないのだったら一生使うことは出来ないだろう、と観月の肩に手を置いた。最初、抱き寄せることは出来なかった。曖昧な時間が、二人には居心地が悪く、だからこそそこから動くことも難しい。すべてが表層から一つ沈んだところに波乱を内包しながらも、凪いでいた。彼らの海面が持つ波は、穏やかに揺れながらも、それを巻きおこす抗いがたい力を予感させていた。赤澤は、いつかためらうことも無く、観月を抱き寄せられれば、と思った。
「明日には十一月になりますし、二日に備えて菊でも飾ろうか」
と観月は言った。
「俺は、明日のために、焼き菓子を買おう。
諸聖人の日だから、そういうののために、購買にやってくるパン屋が明日は持ってくるはずなんだ。去年も、一昨年もそうだったから」
「悪くないですね。
とてもすばらしい、と言えます」
ひとまず、観月と赤澤は、これからもしばらく同じ部屋で暮らすしかなく、それを無理やり変更してやろうと言う気持ちは、お互いになかった。
部屋の窓は、ちょうど南側を向いていて、右手からは朝日が、左手からは夕日が等分に入った。観月と赤澤が暮らしている部屋は、そういう部屋だ。
END
2014.04.17
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