パパ親
ママはあんまりお母さんっぽくない人で、風みたいに自分の行きたいところに行ってしまう人だった。ママは僕が言うのもなんだけど、時々行く友達の家で見る友達のお母さんたちよりも若くて綺麗だと思う。ママはたくさん俺のことを抱っこしてくれたし、僕の話をたくさん聞いてくれた。だから僕はパパがいないことなんてちっとも気にならなかったんだ。
ある日ママは言った。
「ママねえ、慈郎ちゃんが中学生になるまで一緒にいられないかもしれないの」
僕は聞いた。
「なんで?また旅行に行くの?今度はノルウェー?タイ?それともエジプト?」
僕はママのおかげで国の名前に詳しくなったので、どこの国が地球のどこにあるかがすぐに分かるのだ。でも最近ママはあまり出かけない。ママはいつも寝てばかりいる。
ママは答えた。
「そうねえ。ママもよく知らないんだけど、ちょっと遠い所に行ってしまうのよ」
僕は、前から薄々勘付いていたけれど、知りたくなかったことをとうとう認めざるを得なくなった。
「ママ、死んじゃう病気なんだね」
ママは答えた。
「そうなのよ。病気なのよ」
僕は聞いた。
「治らないの?絶対に治せないの?僕は今はあまりお金を持っていないけど、中学生を卒業したらすぐ働いて、スゴイ病院にいけるようにしてあげるから。
ちょっと待っててよ」
ママは答えた。
「もしかしたら治るかもしれないけれど、ママもそれを信じたいけど、でも分かんないの。
そしたら慈郎ちゃんは一人になってしまうかもしれないでしょ?
いきなりママがいなくなったら困っちゃうじゃない?」
僕は答えた。
「まあ、そうだろうけどね」
「でしょう。だからね、心の準備をしなくちゃね。
私も、慈郎ちゃんも」
「でもさあ。僕はまだ一応子供なんだよ?
オヤが自分の子供に、もう死んじゃうかもとか言わないでよ。
ママのこと嫌いだとかむかし言ったのは全部うそだから。
ママが疲れている時に食器だって絶対洗うし、洗濯物も毎日僕がやるし、
死なないでよママ。ずっとおばあちゃんになっても世話するから。ママ」
ママはいつもすぐ泣く人で、そのときもすぐに泣いた。
「ありがとう慈郎ちゃん。
でも、絶対慈郎ちゃんは一人ぼっちになったりしないから」
そして半年後ママは病院で死んだ。
僕は死んでしまったママが寝ているベッドの横で、何をどうしたらいいかぜんぜんわからなくなって、ただ一つ、お葬式はどうするんだろう、と心配だった。お葬式をきちんとしてあげなきゃ。
風も吹かない静かな晴れの日で、窓の外は優しく濁った青空だった。暖かい。ママは手術をした後だったのでお風呂にあまり入ることが出来なくて、少しすえた匂いをさせていたが、僕はその匂いの中でたまらなく眠くなった。
すると、大人の男の人がやってきて僕に話し掛けた。そうしなければ僕は死んだままもう動き出すことはないだろうベッドに潜り込んで一緒に眠ってしまっていたかもしれない。
その人は僕に「慈郎くんだね」と言った。
僕はもう何も喋りたくなくて、消えてなくなってしまいたい気分だったけど、「うん」と喉を絞るように答えた。
男の人は「私の名前は榊太郎というんだ」と言った。
「君のママと約束したから。
何も心配することはないようにする。
ママは死んで、君も私も死んでしまいたいくらいに悲しいかもしれないけれど、一先ず今はご飯を食べなければいけない。
計算すると君は丸一日ご飯を食べていない」
そのあと男の人は病院の人と話したり、携帯電話で色々な所に電話したりしてしばらくのあいだ僕を待合室の椅子に座らせて待たせていたが、最後の電話を切って一つため息をつくと、ぎんいろの車に僕を乗せて食事に出かけた。
広い国道に出ると、道の左右にはファミリーレストランやファーストフードのお店がぽつぽつとある。男の人は最初に見つけたすかいらーくを指差して、「あそこでいいか?」と聞いた。僕は男の人が勝手に店に入っていかないで、僕の意見を聞いたことに少し驚いた。僕は素直に「いやだ」と言った。
「どうして?」
「デニーズが良い」
男の人は僕のわがままを怒らなかった。
「もう通り過ぎてしまったな。
よし、ではデニーズを探そう」
デニーズが見つかるまでは少し時間がかかった。静かな車の中で僕と男の人はお店を見逃さないために道路わきを見ながら無言だった。
「あった!」
「よし」
男の人が駐車場に車を止めるとき、くるくるハンドルを回す手元を僕はじっと見つめた。車を降りると、男の人は僕の隣を歩きながら
「君のママも、断然デニーズ派だったからな」
と言った。
「すかいらーく、あんま行かない」
「何でデニーズだったんだろうな」
「看板がきいろと赤で可愛いのが良いんだって」
「私には、デニーズの方がハンバーグが美味しいから、と言っていた」
僕はいつもママと来た時に食べていた卵焼きの乗ったハンバーグとご飯を頼んで、男の人は温かいうどんを頼んだ。
しばらくして料理が運ばれたが、僕はひき肉が舌の上を触る感覚がまるで石みたいで、とても食べられなかった。男の人も、うどんの汁を少し飲んだだけで、あとは水が入ったコップを両手で包むように握り締めていた。
僕はハンバーグの焦げ目を見るのがいやになったので、フォークをテーブルに置いて顔を伏せた。すると今までほとんど表情を変えなかった男の人は泣きそうな顔になって、
「君も私も、喉に小石が沢山詰まっているみたいだね」
と言った。
僕は自分の喉がおかしい感じをどういっていいかわからなかったが、男の人がいった言葉がぴったりだと思った。
明るい明るい午前中のデニーズで僕は泣いた。うつむいてハンバーグのソースに前髪をひたしながら死ぬほど、頭の芯がじんじんするほどに泣いた。僕は悔しくて、恨めしくて、可哀相で、涙が止まらなかった。頭が爆発しそうに熱くなったけれど、叫んでいなければもっと酷くなってしまうような気がした。あんまり自分の声が大きいので夢の中みたいにそれが頭蓋骨の中を響いた。向かい合って座っていた男の人は、僕の隣に移動してきて、僕の前髪に付いたハンバーグのソースが白い洋服に染み付くのにかまわず僕の肩を抱いていた。しばらくして、男の人の顔を見上げると、その人も目の周りを真っ赤にして泣いていた。声を出していなかったから、男の人の泣く姿を見て、びっくりした。
僕はとうとう気が付いた。
「おじさん、もしかして僕のパパ」
男の人は「そうだね」とだけ言った。
帰りの車の中で僕は眠った。まぶたの裏が真っ暗で、こんなによく眠れたのは久し振り、ってくらいに深く眠った。眠りは闇のように深くて、僕は寝覚めると自分の身体が軽くなっているのを感じ、その心地良さに慰められた。
その日、僕の家族は一人減り一人増え、パパと新しい部屋で暮らすようになった。
2006.5.1加筆修正
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