ママは神戸に住んでいる















 俺は母のことを名前で呼んでいる。友人などの前で彼女を指すときにはお袋、おかぁんなどと呼んだことはあるが、彼女に対してその呼び名を使ったことは皆無だ。だけど、俺はそのことによって彼女から母としての愛を受け取れなかったと思ったことなどないし、あのときの彼女に子供を大切に思う気持ちが欠落しているなどとは思わない。
 彼女との別れは酷いものであったが、それまでの日々を思うと、俺は彼女に愛されて育ったといえる。これから、未来永劫、彼女が俺を生んだ人であるのは変わらない事実だし、たとえ彼女が死んだって、俺はずっと彼女の息子だ。俺の心の中にも、確かに彼女への愛情は存在しており、悲喜こもごも織り交ぜても結局、彼女のことが嫌いになれない。
 俺は小学校を卒業して立海大付属中学に入学するまで、ずっと長崎市思案橋近くの少し古いにおいをさせる住宅街に暮らしていた。思案橋から銅座のあたりは長崎で一番の歓楽街で、地方都市独特の投げやりさと身近さが同居したあまり清潔なところではなかったが、そここそが俺の遊び場で、地下一階のサパーに下りてゆくまっすぐな階段で近所の同胞どもとグミチョコレートパインをしたり、スナックのホステスにルマンドをもらったりした。ちょっと思い出そうとすれば、階段のリノリウムのどこがかけていたかも目に浮かぶし、ルマンドのさっくりとした、やさしいチョコの味と一緒にホステスの年増女のにおいと混ざり合ったシャネルの立ちのぼるさまも明確に蘇らせることができる。俺が十一になるまで、母はずっと二十八歳と自称していて、毎年の誕生日は盛大に祝われるわりに年をとることはなかった。
 俺は小学校が終わると、まず真っ先に2LDKのアパートに帰った。日がよければ出勤前の母に会うことができたし、彼女が早番の日には小さなアパートの鍵穴が青色で冷静に沈黙していた。そういう時は服の中から温まった合鍵を引きずり出し、玄関を自分で開けた。鍵っ子は俺の通っている小学校には少なくなくて、俺はそれを時々寂しいと思うこともあったが、どちらかというと鍵一つ預けられている誇らしさと、気楽さがあった。母が出かけた後の空気がほのかに残っており、急いで飛び出したと思われる日なんかは鏡台の鏡のカバーが乱れていたり、俺にはわからない何らかの用途に使われる化粧品のふたが開きっぱなしになっていたりして、俺はそんな母の痕跡を静かに片付けてやった。ランドセルをささやかに狭いリビングに放り出し、台所の足長テーブルの上に買い置かれている菓子パンを、牛乳と一緒にむさぼるように無言でのどにねじ込む。近所のパン屋で売られているドーナツかアップルパイかたいていそのどちらかで、俺はアップルパイの方が好きだった。そうして、十分もたたずに腹ごしらえをすると、そのままはねるように家を飛び足し、玄関の鍵だけはしっかり閉めて思案橋に出かけた。といっても、俺は母が勤める場所のごく近くまで行って遊んだことはない。同じ歓楽街でも、通りの反対端だったり、裏っ側の意外な空き地などで、けいどろやサッカーなどをした。時に墓場の堀を渡り歩くハカトビをやったりして、毎日、毎日、飽きることなく、果てしなく遊んだはずなのに、いまはその全体像はおぼろげで、鮮やかなのは空き地に打たれた木の杭のささくれだとか、傾斜地に無数に広がる墓場の展望だとか、ずっと仲の悪かった男の子が喧嘩のときに俺に言った罵り声一言だとか、部分的なことばかりだ。
 俺は小さいときから育ちのいい男の子が好きだった。彼らの丁寧さや、時々感じる育ちがよさそうなしぐさの異質さが、異邦人のようにも感じられた。明らかに自分と違う人間を観察し、共に遊ぶのは刺激的で興味深いことだった。普段の遊び相手の中にそういう子は居らず、明らかに住む地域で遊ぶ相手がグループ化されていたのだが、時々、誰かに連れられて迷い込んだようなちょっと俺のセンスからするとダサい、きちんとした服を着た子の手を引いて生ごみくさい通りの裏を案内して回るのは楽しかった。人によって反応はまちまちで、迷惑そうに早く帰りたがる子もいれば、面白がってこれからも遊びの仲間に加わりたがる子もいた。しかし、俺以外の思案橋の遊び仲間はそんな子をきまってはみごにしたので、長く付き合うことはなかった。

 母は歓楽街の女王だった。口元にほくろがあって、目が強くて、子供の俺から見ても誇らしい美人だった。俺は俺のタネになった父親と直に話したことがなく、母親と二人だけでずっと暮らしていたせいか、随分と年以上に大人びていた。俺は男だが、よく母に生き写しのようだといわれた。母は、胸ならでかかったがひざや手首は鋭角的な骨格の女で、尖った顎なんかは確かに自分でも母に似ているものだと思った。ある時期まで、女である母に似ているといわれることが大嫌いだったが、今では俺はそれをうれしく思う。まだ俺が男として成長しきるまでは遠い。だから、鏡を見るたびに、母の面影を自分の顔から探し出すのはとても容易なことだし、俺が美人だと思っている人に似ていると言われることはいいことだ。俺が思案橋に行くと、誰かしらが一緒にいる仲間にまで菓子やらジュースやらをくれた。夜の思案橋にいることは母に禁じられていたので、昼の白く色が飛んだ、退屈そうな街の記憶ばかりだが、酔いつぶれた母を迎えに行ったときや、母の禁を破ったときなどに見た夜の街に、十二歳の俺は子供ながらに魅せられた。昼間にはあんなに安っぽく見えた通りに連なる提灯は、白熱灯の光でやわらかく丸く光り、打ち捨てられたように沈黙していたネオンは一転、きらめいていた。酔っ払いや客引きにちょっかいを出されながら、どこからか漂ってくる嘔吐と腐臭のような臭いをすり抜けてゆくと、喧騒は脳髄を冒すように広がり、鼓膜に向けて収縮し、ある種の酩酊感を生んだ。母の店につくころになると、光と音が俺の中に飽和して、すべてがぼんやりとした気持ちになったものだった。
 酔いつぶれた母はとても重くて、酒臭かった。店を出るまでは愛想よく、にこやかに店員や同僚に手を振っていたが、人通りが少ないくらい道に出ると、決まって誰かを標的にして罵倒し始めた。あん女、きょう、私の服をじいっと見てね、何も言わないで目を逸らしたっと、なんか言えばいいのに、きっと、趣味が悪いとでもおもたんでしょうよ、だまっちゃって、あーも、おーどか女。
ハイヒールがカッカ、コココッ、と不安定な、乱れたリズムで鳴り、派手な色のスーツには皺が寄った。俺はそんなときの母が疎ましかった。すべてを耳半分で聴き流すようにして、口数すくなに相槌を打つだけだった。母はそんな俺の反応に泣き出して、「そうやね、こげん話ばっかしてもしかたなかね」と最後には自分勝手に自省し、一番最後には「わいには雅治だけやからね。もう、守りたいのは雅治だけや」とわけのわからない告白をし、重たくぐんにゃりとなった彼女の服を脱がせてパジャマを渡すまでが俺の役割だった。俺はそのような時、自分たちの後ろ盾の無さと、明日への不確かさが怖くて、泣きそうになった。そのまま、泣いてしまって母に抱きついて、その暖かさのなかで眠れればどんなにいいことかと思ったが、俺はそれをしなかった。俺は母に少しでも頼りがいのある息子であるということ示して彼女を安心させたかったし、また、彼女を捨ててゆくために少しでも早く大人になりたかった。そのために、母にすがりつくということができなかった。それは今の俺の悪い部分も、良い部分も作り出した。ファンデーションがしわにたまって筋を作る彼女の顔とそのほくろをしげしげと眺めて、俺は憎しみと、不安と、たまらなくなるような母が好きな気持ちで夜に押しつぶされそうになることがあった。そんなときは、アパートの狭い部屋から一歩も動きたくないと思うと同時に、外圧で夜の黒が窓ガラスや玄関を破ってもんやりと進入してくるような気がして、外の広さがやたらと恋しくなり、誰でもいいからここから俺をさらっていってくれと思った。誰でもいい。母以外なら誰でもいい。この狭い、アパートから、長崎から俺をさらっていってくれ。しかし、俺が、具体的に行きたいと思う土地は、どこにも無かった。
 母は、売春婦だった。思案橋にある高級な隠れ売春宿で一番の女だった。どっかの偉いさんをパトロンとしていたらしい。母がその男の家に出向くことはあっても、俺を連れてそこに行ったり、その男を俺が住んだアパートに寄り付かせたことは無かった。しかし、そうではない、どことも知れぬ男がいつの間にかアパートにいることはあった。皆俺を手なずけようとし、俺はそれなりに、物をもらったり食い物をもらったりしたならば礼を言ったがそれだけだ。よく、猫んごたると言われ、疎まれるようになり、そのころになると母に寄り付いた男はアパートからも街からもいなくなっていた。俺が父親らしい年頃の男と身近に接するのはあまり無いことで、彼らの体臭や風呂上りのしぐさは俺に嫌悪感と異物感を催させるには十分で、男といるときに妙に明るくなる母も彼岸にいるようだった。ちがう。きっと彼岸にいたのは俺だったのだろう。今思うと、どの男も、それなりに優しく、それなりに狡かった。彼らを見ると、いつか俺も彼らのようになるのかと思い、それが信じられず、現実感の無い話として遠くに浮かんでいた。娼婦をしていた上に男をとっかえひっかえしていた母は、確かに、十分にふしだらと言えたかもしれないが、俺は、そんな一瞬の慰めを欲していた彼女を糾弾することができない。どうしてだろう、いま、どこかの街中で彼女にあったら俺は泣き出して手も触れられずに、どこかの店に入ろうと提案し、何かをおごってやろうとするくらいのことはやりそうだ。どうしようもない。どうしようもない。確かに彼女は、息子の俺を愛していたのだから。ずるいくらいに、それは変わらない。

 十一になった俺を置いて彼女は消えた。おそらく、その時期毎週金曜に来ていた男と暮らすのだろう。夏だった。母がいなくなった部屋は、やはり日当たりが良くうだるような暑さだったがとても静かで安らかだった。絶え間ないせみの声が耳を侵していた。死ぬほど不安だったが、それと同時に生活の中で俺を悩ませていた重い石が取れたような気分でもあった。夏休みに入る四日前で、早めに終わった学校から帰ってくると母はもう出かけたようで、俺は冷凍庫のドアを開けた。夏の時期には置いてあるおやつがアイスになり、しかし、その日はそこには何も無かった。俺は落胆したが、テーブルを見ると一万円が三枚重ねて置いてあった。つまりこれで買えということだろうが、いささか量が多かったので俺はおかしく思った。しかしすぐに、きっと今日は新聞の集金でも来るとだろうと思い直し、一万円を一枚ビニールのがま口に入れた。それを手に、理由もなく走って野菜も売っているコンビニに行くと、雪見だいふくを買った。それをその場で食い、すぐに遊びに行きたかったがあまり多くの金を持ち歩くのは居心地が悪かったので、一旦家に帰り、財布と残りの二万円を食器棚のなかに入れた。食器棚の中には、前から入っていた七千円があった。俺は家に鍵をかけ、そのまま出かけ、いつものように近所の友達としこたま遊んだ。そうして、頭が痛くなるほど疲れてやっと家に帰った。腹を減らして、今度は冷蔵庫を開けると、すぐに食べられるようなものは何も入っていなかった。たいてい、出来合いのコロッケやら、ポテトサラダやらが入っているはずなのに、母は忙しかったのか何も用意しておらず、気付けば米も炊かれていない。俺はまた財布を持って近所の中華料理屋に行った。母が何も夕飯が用意できないのは良くあることなので、そういう時は必ずその店で食べていた。天津飯を頼み、無言ですべて平らげると、一服するまもなく家に帰り、なんとなくテレビを見て、惰性で風呂に入り、寝た。
 朝、母は帰ってきていなかった。別に、ありえないことではなかったので、俺は朝食を食べずに学校へ行き、またいつもと変わらぬ帰路に着いた。しかし、その日は、アパートの前に一人男が立っていた。母の店のマネージャだった。お母さんどこにいったか知とっと?と聞かれた。あの人、職場にきとらんとですか。昨日からな。へぇ……。
 それきりだ。
 しかし俺は夏休みが始まるまで普通に暮らした。何もおきていないように。店と思案橋はそれなりに騒いでいたようだった。
 そして、まだ海の日ができていなかったあの年の夏休み一日目に、俺のところに一度も会ったことが無かった父親という、身なりのきれいな男が現れて、俺は彼について行った。俺は母に似ているとよく言われたが、その男こそ色が白くて俺に良く似ていた。彼の家は高台にあって、連れて行かれると、母にちょっと似ている赤いスカートを着た女が玄関を開けた。スリッパを履いていた。俺は、スリッパを履くような生活って言うのは本当にあるもんなのかとひそかに驚き、しかし無言で俺にも用意されたスリッパを履いた。女はじっと俺を見ていた。俺はそれを無視した。そのときはまったく知らなかったことだが、その時点ではその女も俺を迎えに来た父親の正式な妻ではなかったらしい。その家には彼女の子供が二人いて、俺よりも年上の女の子と、年下の男の子だった。
 次の冬、二月に、俺と家族は長崎を離れ、東京に移った。秋には、神奈川の中学校を受験していた。小学校の成績は良くなかったが、家庭教師をつけられたら、馬鹿みたいに勉強ができることが分かった。
 あの、二人で暮らした狭いアパートの荷物は段ボール箱二つにも満たない俺のもの以外すべて置き去りにした。最後、あの部屋で一人になったとき、俺は母のドレッサーのコーデュロイで出来た椅子の座面にかけて、鏡のカバーをはずして、すすけた部屋を背景に自分の顔をじっと見た。そして、母が使っていた化粧用のちびた黒いペンを小さな鉛筆削りで慎重に尖らして、俺の右の顎、唇の下あたりに深く刺して、芯を折った。俺の口元のほくろは、ほくろじゃなくて、鉛筆の芯なのだ。

 俺はもうすぐ父親の金で、大学に入る。聞いたところによると、あの人は今、神戸に住んでいるということだ。









2006.5.1加筆修正

仁王のほくろ秘話

BGMは「歌舞伎町の女王」で。








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