よくある通り名















 とても大きな声で歌う女生徒の声が上の方から聞こえたので、私は思わず空を振り仰いだ。歌っている歌は音楽の教科書の最後の方に載っている「歌のつばさ」で、音程は安定していた。高い音になると掠れるように苦しげだったが、とても楽しそうだった。どこから聞こえてきているのかと思えば、二階の窓かららしい。どのような人が歌っているのか気になって、目を凝らしたが、道から見上げて見える範囲には人陰も無かった。私は昼休みの終わりに特にすることも無く、旧校舎の庭のどこかに大きな蛇が出るという話を聞いて、なんとなく、それを探すわけでもなかったが、しかしそれを探してそこに出向いたのだった。旧校舎を部活動の場としている文化部も多かった筈なので、きっとその中の一人が、弁当などを食べに来たついでに歌にでも興じているだろう。私は、白茶けた土が固くなったまま、何も植わっていない花壇のレンガに腰掛けて、予鈴まで彼女の歌を聴くことにした。
 
 授業開始五分前には予鈴がなる。その音を聞くと女生徒の歌声も止み、私は自分の教室に向かうべく立ち上がった。もう少し待てば、旧校舎の入り口から出てくる彼女の顔を見ることが出来たかもしれないが、そうしようとはしなかった。と、重たげな下駄箱の扉を開けて見知った顔が出てきた。
「よう。柳生よう」
 仁王だった。もしかして、彼は私が耳を傾けていた歌声の女性と逢瀬をしていたのかとも思ったが、そのような気配は感じられなかった。
「どうしました。昼寝ですか?」
 彼と私はテニス部に属しており、共にレギュラー圏内にいるという関係上、練習などでも組むことが多かった。おそらく、このまま行くと二人でダブルスを組むという采配を部長は考えているだろう。彼は試合をつくるのがうまかった。そして一転、地道で、努力を努力とも思わず黙々としたところがあった。利己的な印象の男だったが私はそのような彼を非常に逸した人物だと思っていた。
 仁王はにいと笑うと、「歌っとった」と言った。
「わいも聞いとっと?」
 しかし、私は彼が歌う声など聞いていない。
「女性の声は聞こえましたが、あれがあなたの声とは思えません」
「うふ。色っぽい声じゃったろ?」
 仁王は良く私に、女性に関する嗜好を尋ねたがった。私は、それをあまり快く思わなかったが、極めて拒絶するのも馬鹿らしい話だと思ったので、相当不躾な質問でない限り聞かれたことには答えた。
「そのようなことは考えませんでしたが、それなりに想像を駆り立てるような、声でしたね」
 仁王はにこにこしていた。
「やぜらしか男じゃ」
「やぜ……?」
 仁王はひどい方言で、普段はまったく関東言葉を話そうとしなかった。なので、時々、周りにはまったく理解不可能の形容詞などを使った。私が疑問に眉をひそめると、彼は
「いやらしい人ね。人の声を聞いて、一人で何を考えていたの?」と女の声で言った。
 仁王の普段の声はもう声変わりした低めの男声なので、私は確かにびっくりして、「随分な特技ですね」と言った。
「上手でしょう?声だけ聞いたらわからないくらい」
 疑いながら聞くと、女を模するそれだと言うことは見抜けるが、それにしてもちょっと低いくらいのきれいな女の声で、そして何より正確な音階の標準語だった。
「練習でもしたんですか?君はいろんなことができますね」
 彼は、以前、部活の休憩中に雲雀のまねをして、丸井や、幸村まで面白がらせていた。
「雲雀は練習したけれど、これは違うの。私ね、喉に女の人が住んでるの」
 そういって仁王はあははと笑い、きびすを返すと私を一瞥も振り返らずそのままさっさと言ってしまった。なるほど、と思った。するり、と振り返りざまに揺れた彼の後ろ髪が、ちょっと今までの私の人生で見たものの中ではありえないくらい色っぽく、目を逸らしたくなる性的な匂いをかもし出していた。うなじ下あたりにある出っ張った骨が透けるように青白な肌に、私は血管の蠢きすら見た。脱色を繰り返したと思われる髪の毛はばさばさだった。根元は真っ黒だったが、5ミリ位するとヒステリックな金色になり、頭皮から離れてゆくにつれいっそう色が抜け、枝毛だらけの毛先は銀色どころか、透明を思わせた。それが彼の石膏のような皮膚と、少しほつれた制服の襟を擦るように、ぞろりと動いたのだった。私はそうしてようやく、彼を初めて見た時に思い浮かんだことの正体をつかんだ。マネの肌色だ。彼の肌色は、とても、マネの描いた女の肌色に似ている。あの、青と黄色と白が不愉快に、温むように混ざり合った肌色は他に見つけようが無い。そして私は、仁王にジンジンする痴情の気持ちを抱いた。私は幼いころ、家にあった画集のマネの一冊を見て、初めて、性的な疼きが下半身に走るのを感じたのだった。あの肌色だ。オリンピア。
 だから私は彼をどうにか裸にしたいと瞬間的に思った自分の気持ちがおかしいものだとはまったく思わなかった。むしろ、自分の初恋が、このような形で到来したことは感慨深いほどだった。ぼんやりと、自分は、これからどうなるんだろう、と言う不安が脳髄を包み込み、しかし、授業には間に合うように教室に早足で歩きながら、胸が詰まった。授業中なぜ、胸が詰まったのかを考えたら、それは彼に対する妙な好意が爆発したのと、きっとそれは叶わないものになるという直感からきたものだろう、と思った。好意か。大変だ。私は、初恋をしているのか。しかし、こんなに直線的に誰かとむちゃくちゃになりたいと思ったことは初めてなのだから、きっとそうなのだろう。私は、人が思うほど、恋愛とセクスを結びつけるのを厭わない。しかし困った。仁王君とは。私は頭を抱えたが、頭を抱えながら、演習問題7の答えがY=7であるということをすみやかに導き出した。私はぐりぐりとグラフに黒く点を打った。鉛筆の黒鉛が放たれる。

 立海テニス部において有力な選手は、皆、どんな人格であってもそれぞれに勤勉だった。そして、それなりに自分本位で、一途だった。私がスポーツをする人間を愛する理由はそこにもある。日々を鍛錬する人間には、努力に対して沈黙を持ってあたれる資質がある。これは皆にあるもので、スポーツをやる人間がそれを特に育てているからかもしれないし、そうでないかもしれない。とにかく、私は、外周を走り続けたり、ひたすらリターンの練習をする群像を眺めたり、それに参加するのが好きだ。スポーツ選手の身体には不遜な気配が漂う。競ることに慣れたその不思議な空気は、私を少なからず高揚させ、興奮させる。放課後のグラウンドは、私にとってとても美しい場所だった。いつか、この、少年と呼ばれる自分が居なくなるということを考えるのは少し難しいことだった。
 私は部活の間、ことあるごとに仁王を見た。そして彼の足の運びやラケット色、髪の跳ねる様が、随分私の目に馴染んだものだと思った。彼とテニスでダブルスをやることはきっと楽しいに違いない。三年生の号令が遠くに響いている。汗を散らしながら、私はそれが背中を伝う感触を楽しんだ。
 テニス部の練習が終わるのは野球部などよりは少し早めだが、それでも最低八時だ。コート整備を先導し、一通りを片付けるとすっかり夜の空気になる。準レギュラーになると荷物の置き場所ほぼ決まっており、自分の周りは同じ準レギュラーばかりだった。丸井が桑原に寄りかかりながらズボンを履き、桑原は何か文句を言い返す。バチン、と音がして、丸井は桑原のつるつるの頭を平手でたたいたようだった。テニス部の部員は、あまり多くない。どの部活よりも厳しかったし、そして中学高校の部活らしくなく、辞めてゆくものを追わないからだった。しかし、皆が一様に着替える部室内は耳が震えるほど騒々しく、汗と土ぼこりと制汗剤の匂いが充満していた。レギュラーのロッカーの前で着替える真田と幸村と柳だけが三人で知らん振りして粛々としていた。私はすぐそばでシャツを羽織る仁王に言った。
「一緒に帰りませんか」
 仁王は、今まで私が誰にもこのようなことを言い出したことが無いからか、ちょっと目を見開いて、はかるように私を凝視すると「ええよ」と言った。二人で出て行く後ろで、丸井が桑原の頭を噛んでいた。桑原は悲鳴を上げていた。
 夜の空は折り紙みたいに黒く、そこに穴を開けた星がちらちらしていた。最寄の駅までの道のりが、彼と私の重なる通学路だ。住宅街を通る少し広い道だ。私は彼に帰ろうと言ったはいいが、特に話があるわけでもなかったし、私の無駄話といったら、こういう隙間の時間を埋めるにはあまり面白いものではないという確信があったので、無言だった。仁王も私の右隣を歩いていたが、自分のつま先を見ているようでこちらを見もせず、無言だった。私は何か話そうか、それとも話さないほうがスマートかと考えていたが、とてもきれいな銀色の車が横を追い越していったとき、目で追うと、仁王も同じように目で追ったので、私は「メルセデスですね」とやっと一言言った。
「柳生はかっこつけちょる」
 仁王は予想外のことを言った。
「そうでしょうか?」
 私を差し置いて、仁王はすべるように否定した。
「平生、メルセデスなんて言わんっと。日本人じゃったらベンツ、言うとけばよか」
「でも、メルセデス、の方が名称として正しいでしょう?」
 仁王は口角をきゅっと上げて笑い、じっと私を凝視して、少し間を置いて私が身構えてから
「やっぱり柳生はかっこつけじゃ」
 ともう一度言った。二人の足跡の間隔はほとんど一緒で、私か彼と足音が重ならないように何となく気をつけながら歩いた。仁王が私をかっこつけと言うのならそうなのかもしれない。確かに、私は、かっこいいのと、かっこよくないのだったらかっこいいのを選ぶだろうし、いつも立ち振る舞いに注意を払っていたから。
「言われれば、否定できません」
「うふふ。柳生は面白かね」
「面白いですか」
「かっこつけって言うたの、嘘。気にすんな」
「はぁ……」
「わいと俺、ダブルスを組むと思うとるんと?」
「最近、よく組まされますしね」
「なあ、なんかよう、俺とわいって、似とると思わん?」
「体つきなら」
「なあ。
 この前お前、水飲み場で眼鏡とって、タオルかぶっちょったじゃろ?
 あれ、ブン太が、俺かと思うたって言うとったんけん、確かに似とらんこともないってなあ」
沈黙。
「柳生と、部活以外で二人きりで話すの初めてじゃに、なんか変」
「そうですね」
「なんで、もっと早う、俺、おいと話そうと思わんかったんじゃろ」
「私も、そう思ったから」
 仁王は、私をまた推し量るようにじっと見た。多分わざとなんだろう。明らかに、私が彼を好いていることを知っている目だった。どれぐらいの深さかは知らなかったとしても。
彼は慎重だと思った。一言一言が、一見無造作だったが、私との距離をよくはかった、気遣いがあるといっていいほどの害の無い連なりだ。
 街灯の合間合間ささやかな闇に、彼の肌色は汗と制汗剤の匂いを混じり合わせて、発光していた。
 次の日から、私は母が作った弁当を手に毎日旧校舎に足を運び、仁王も必ず旧音楽室で歌っていた。時々女の声を出したが、たいてい、緩く変声した声だった。私は彼の歌声が食えればいいのに、と、無駄なことを思った。

 また、いつも仁王がいる教室に近づくと、今日も歌う声が聞こえた。開け放した引き戸から中をのぞくと仁王が女の声で歌っていた。ドイツ語の喜びの歌だった。彼は窓枠に跨ぐように座っていて、こちらから見える床につかない左足を心持ゆらゆらさせていた。私は彼の近くに打ち捨ててある低い生徒用の椅子に腰掛け、なんとなく羅列した。
「喜びの歌。ドイツ語」
 仁王は中庭を見たまま私を一瞬無視しようとして、そのあとちらりとこちらを見て、切りのいいところで歌を一旦切ると、「覚えた。教科書にカタカナ付で書いてあったけん。歌えたら、なんかええじゃろ?」とこちらを見ずに言い、すぐに歌を続けた。南側に一列に並んだ学校らしい窓からは夏に近くなってきた空がぶち抜くように広がり、仁王が座る開け放されたサッシから吹き込む風は完璧なほどに美しかった。外が薫った。歌を終えると仁王は咳き込んだ。細かい鑢をかけたようにがさっとした咳だった。ケンケン、と二回咳をして、「んー」とうなり、鼻をかるくスンと鳴らした。
「そんな声ばかり出しているからですよ」
 私が沈黙をつくらないためにそう言うと、仁王はまた私をちょっと無視して、そしてからまた流し目をくれて、黙った。静かだった。私は、遠くの鳥が鳴く声を久しぶりに聞いた気がした。風がフワリと吹いて私の髪を柔らかく揺らし、仁王のシャツに空気を孕ませ、瞬くような白を翻して、彼の肌色が白日に晒された。さまざまなにおいがした。校舎のコンクリートの匂いと、中庭にしかれたレンガの匂い、教室の机や椅子や棚の、湿気を含んだ古い木の匂い、インクのしみた紙の匂い、ウール交じりの制服の匂い、仁王がつけている、不恰好な、彼に似合わない、未熟さを助長させるような香水の匂い、彼の髪が太陽に晒されて放つ暖かい匂い。私は恋をして世界が彩りを持つと言うのはこういうことなのかと思った。なんとも言いようが無いが、身体の皮を一枚剥かれて、新しい皮膚が風に晒されているようなものだと思った。身体中がジンジンした。
「声変わりって、一回じゃないっと?また、喉がおかしいん。もうこれでええじゃき、これ以上、低くなるのはいやじゃ」
 仁王は失望してそうつぶやき、またスンと鼻を鳴らすと、うなだれた。私は、それにどう返したらいいのか分からなかったので「別に、低い声も良いと思いますけど」と、どうにもならないことを言った。
「………」
 二人で沈黙した。ゼリーの中にいるみたいに空気が柔らかかった。私は少し眠くなった。仁王が右手を上げて、彼の顎にあるほくろに触った。私はそれを見て、今すぐ彼のきゅっとした顎に触りたいと思った。しばらく黙ったままほくろをいじって、仁王は「のう。柳生。おいのこのほくろ、好いとっと?」と言った。
「とても良いと思いますよ」
 私は素直な気持ちを言った。彼の、インクをぽっちりとにじませたように希薄で小さなほくろは彼を思い出すきっかけになる、分かりやすい目印だった。
「こいな、ほくろじゃないんね。
 こいな、鉛筆の芯なんね。
 自分で鉛筆の芯、刺したんけん。ちょっと青いやん?
 おかぁんがこけぇほくろあってな、どうしても俺もほくろがほしくてな。
 …………。
 おいんがたはおかぁんと二人だけで暮らしとった。昔な。
 おかぁんはぼぼ売って、それで二人生きとった。
 おかぁんは美人じゃった。
 おかぁんはこけぇほくろがあったんじゃ」
仁王は同じことを二度言い、私をじっと見た。私は彼の言っていることを直接理解できなかったが、「ぼぼ売って」というくだりが、なんとなく「セクスを売って」とか、そういう意味合いなのではないかと思った。何か考える前に、それだけが分かり、私は何にとも無く「へえ」と気の抜けた相槌を打ち、「芯はどうなったんですか?まだ残っているんですか」と究極にどうでも良いような、しかし、なんだかとっても気になることを聞いた。
「溶けた」
と仁王はにべも無かった。









2006.5.1加筆修正







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