退屈な世界ゲーム















 ある日いきなり、真田が何をしやべつてゐるのか、まつたく聞き取れなくなつた。どんなに耳を凝らしても、何度聞き返しても、どんなに静かな場所でも彼のしやべることだけだうしても聞き取ることができない。明らかに彼が言葉を発してゐるのは分かるのだ。そして、彼ののどから低い声が放たれてゐるのも身体のそこが震える振動で分かるのだが、だうしても彼が何を言つてゐるのだけは分からない。なので私は途方にくれてしまつた。真田は疑問符を繰り返す私に必死に何度も解き口説こうとしてゐるが、その必死の言葉が分からないのでは埒が明かない。半笑いを浮かべながら「ごめん真田まう一度」、「ごめん真田まう一度」と繰り返す私に一生懸命な真田も、しばらくするとたうたう根を上げ一時的にあきらめてしまつたらしく、苛立ち帽子を脱いだりかぶつたりした挙句、眉根にこれでもかと皺を寄せてため息をつき、まう一度話し出さうとしてそれをやめたのだつた。私はそんな様子がひどく真田らしかつたので思わず笑つてしまつたが、それに抗議してゐるらしい真田が何をしやべつてゐるかはやはり解読することができないのだつた。困つたことだ。丸井は普通。柳も普通。ジャッカルも普通。柳生も、仁王も、赤也も普通。監督も、先生も、母も、妹もお父さんも、お医者さんも看護婦さんもクラスメイトも皆病室にやつてきては、普通にしやべつてゐるのに、だうも真田だけがはつきりしない。折りたたみのパイプスツールに腰掛けて真田はいささか失望したやうだつた。
「ごめんねえ。なんだか夢の中のやうで、君の言葉がちつとも分からないのだよ」
 私はそんな彼を見るとかわいさうになつてしまつて、すまない、すまないと思いながら謝罪の言葉を口にした。
「□□□□□」
 真田が狼狽したやうに一言言つたが、それも掴み切れぬ何かの尾のみたいに、私の三半規管をくるりとぬけて行つて全貌を知る前に消てしまう。あ、だとか、ぬ、だとか母音子音の響きは分からないことも無いのだが、この場合何より重要なのは連なりであつて、そんな小さなかけらに一生懸命目を凝らしても、成す術が無い。私は真田の話が聞けないことが酷く残念で、一分だつて早くこの拗れた問題を解決したくて、柳に電話をかけることにした。
「やあ柳。幸村だよ」
「それは知れてゐる」
 やつぱり柳は普通ぢやないか。なんてしやなりときれいな声。
「困つたことになつたんだ」
「言つてみろ」
「真田が、何をしやべつてゐるのか解らないんだ」
「……たうたう、お前好きなあまりにあの男も痴れたか」
「真田は痴れてなんか居ないさ。ちよつとばかり生真面目が過ぎるだけさ。
 言葉が理解できないんぢやあなくつて、何を話してゐるのか聞き取れないのだよ」
「たうたう、お前好きなあまりにあの男は呂律が回らなくなつたか」
「真田は呂律が回らなくなんかなつて居ないさ。多分だけれども。
 おそらく私の、三半規管だか、鼓膜だか、そこら辺がおかしいのか知らんけれど、それで駄目になつてゐると思うんだ。
 以前医者にメニエールのケ≠ェあると言われたので、そこに問題があるとも思える」
「それはいけない。ぜひ診て貰え」
「まう診察時間は過ぎてしまつて……。
 しかし、このまま真田の何も聞かずに彼を帰すのも堪らなく惜しくつて。
 ぜひとも、柳、真田が何を言つてゐるか、一度彼から伝え聞ゐて、そしてから私に君が伝えてくれないだらうか?」
「そんなことならお安い御用。ぜひとも手助けしやう」
「ありがたう」
 柳はとても礼節と思いやりのある青年なので、私のお願いを快く引き受けてくれた。私は今まで、会話の私のはうだけを釈然としない顔で聞ゐてゐた真田に受話器を渡して「柳にお願いしたから、君はまず私に話したいことを柳へ言つて。そしてつから、私は柳から話を聞くよ」と言つた。真田は受話器に向かつて真剣な顔で話し出した。
「□□□□、□□□□□□□□□、□□□□□□□□、□□□□□。□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□、□□□□。□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□。□□□、□□□□□□□□□□□□□□、□□□□」
柳が覚え切れるであらう文節は長いに違いないので、真田は一生懸命次から次へと話してゐるが、やつぱり私にはよく解らない。なんて退屈なんだらうと少し悲しくなつてしまつたところで、真田が「□□□□」といつて私に受話器を渡した。
「幸村か」
「代わつたよ」
「真田が言つたことを言うぞ。
 □□□□、□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□。□□□□□、□□□□□□□□□□□。□□……」
「待つてくれ!」
「だうした」
「君が話してゐるところは普通なんだけれども、真田の部分を伝聞することができないよ!何てことだ!」
「よくないな。それは□□□」
「何だつて?」
「□□□□□□□言つた□□。この手段が駄目□□、□□だう□□□□□□□□。
 今日□□□□我慢して□□□□、□□□□明日まで待つて□□□□□ものか?」
「ああ!真田の意味不明が、君にもうつつたみたいだぞ!」
「何」
 その「何」を最後に柳の言葉まで、たうたう全部わからなくなつてしまつた。しかし、このまま電話を切るわけにもいかないので、真田に事情を説明して、だうか柳に謝罪と感謝を伝えて電話を切つてくれないものかと頼んだ。真田は困り果てる私を哀れんだ目で一瞬見つめて、電話を代わつてくれた。最後の真田の雰囲気で「それでは」と言つたんぢやないか、と言うことだけ解つた。
「困つたねえ」
「□□□」
 真田は、荷物が満載のテニスのバックの中からB6のノートとボールペンを出した。さうだ、聞けないのなら書ゐてもらえばいいものを、なんて私は馬鹿なのだらう、失念してゐた。名案だつたので、私は手を打つて真田の賢明をたたえた。さて真田は水性ボールペンのキャップをプキッと外し、さらさらとノートの罫線沿いに文章を書ゐてゐる。思いのほかさつさと終わらせてしまい、私に提示したので、まずは小手調べとばかりに、短い文句でも書ゐたのだらう。私はさてさてと半身起こしてゐたベッドから身を乗り出し、ノートを両手で受け取り紙面に目を走らせたが、何てことだか、書いてゐる文章がよく見えず、理解できないのだつた。何度見ても、目をこすつてみても、なんだか文字の書ゐてあるあたりの白と黒とみづいろの罫線が混ざつてしまつて、書ゐてある言葉が上手く読めない。悔しくなり、躍起で文字ゝゝの黒い線を指で辿つて、その指の動きから読み取らうとも試みてみたが、やつぱりよく解らなかつた。ハネだとか、ハライだとかは細かいことはこつちにおゐても解るのに、役立たずだ。目に見えてしゅんと萎えた私の真田も事情を察したらしく、表情を曇らせた。
「□□□□□」
 おそらく気遣いの言葉だらう。
「ありがたう。なんと言つてゐるか、決定的なことは解らないけど、君は心配してくれてゐるね。
 それに比べて全く私ときたら役立たずだ。一番大事な君が言うことやら書くことやらが解らないなんて」
 真田は首を振つて私の肩に手を置ゐた。とても真剣な目で私に諭してゐる。私はその暖かい手が嬉しかつた。
「君はいい男だ。
 優しい男だ。
 あんまり自分を卑下してしまつては君が悲しむと言うことを私はいやと言うほど知つてゐるから、そんなことを口に出すのはやめにするよ」
 真田はうなずゐた。よかつた。これであつてゐる。
「しかし、君の説教が聴けないのは寂しいなあ。
 これはどんな病気と言うんだらうね。
 明日朝一番にでもお医者さんに聞ゐてみなければ。
 治るやうなものだといいのだけれど」
 あまりに心配げに見えたのか、真田は私を抱き寄せて、背中をさすつてくれた。彼の胸からはポプコーンの匂いがする。さうされたら私は嬉しくなつてしまつて、あせつた気持ちは解きほぐれて、ねむたくなつてしまつた。真田はいつさう弱つた私を叱るなんてことはしないだらうから、あくびが出ることを私は止めなかつた。
「多分、こりやあ、メニエールのせいさ」
 さう私は言つて、そのあと何かしやべつた真田の胸が響くのを頬骨で感じた。
 
 私は、あんまり不安に感じても胸の病気によくないと思つたので、その晩はなるたけ気に病まないやうにして眠つたが、翌日からはもつと大変なことになつた。朝、検温に来た看護婦さんが何を言つてゐるのかが途中で解らなくなつたり、隣の病室の女児が遊びに来たときも何を言つてゐるかさつぱりなので、謝つてすぐに帰つてもらつたのだ。早くお医者さんに診てもらわなければこれは取り返しの付かないことになると危惧し、すぐにナースコールを押した。そして来てくれた看護婦さんに逐一報告して、お医者さんを呼んでゐただくことにした。私の言うことに時々質問をはさむ看護婦さんの言葉が解らないのが困りものだが、ええ、ええ、とにかく大変なんですよと言つてお医者さんの到着を待つた。でもやつぱりお医者さんのことばもいちいち不明瞭で、問診といつたつて私がひとまず伝えたいこと、今の状態をしやべるだけで、彼からの質問がわからない。
「先生、困つたことです。
 私、人の話すことが何も解らなくなつてしまつた。
 筆談できれば何よりなのですが、それもあやしいのです。
 メニエールのせいかも」
 治りますでせうか、と聞くと、お医者さんはなんとも言いがたい顔をして「今のところはわかりません」と、言つたやうだつた。
 困つたことだ。手術がまたひとつ増えるかもしれない。

 それからは一日、大騒ぎだ。入れ替わり立ち代り見たことの無いお医者さんがやつてきて、私の下瞼をめくつたり胸に聴診器を当てたり、しやべらせたり、聴覚検査機にかけたり、機械に入れてくるりと一回転させてみたり、大層なこととなつた。お母さんもやつてきて、お医者さんの話を熱心に聞ゐてゐたが、とうとう困り顔になつて、私に眉根を寄せた。お母さんの言うことまでわからないのは本当に心苦しいことだつたがしかたが無い。夕方になるまで検査、検査の忙しさだつた。

 面会時間ぎりぎりに、柳が丸井と赤也をつれてやつてきた。丸井と赤也は相変わらず騒がしく楽しさうで、二人して私がむゐて八等分した梨を四つずつ分けて食べてゐた。お礼を言つたみたいだが、二人が何を言つてゐるのかはよく解らなかつた。柳はとても頭が良い男なので、私が過剰な気遣いを嫌うことを先回りで察してゐて、程よい笑顔で、私にねぎらいを言つたやうだつた。私はやつぱりよく聞こえなかつたが、柳がとても普通なので、安心してしまつた。丸井と赤也は私が彼らの言葉を聞き取れないのを知ると少し残念さうだつたが、五分もするとまた最初の調子に戻つて、聞き取れない私に抱きつゐたりキスしたりしてくれて、面会時間をすこし過ぎてやつと病室から出て行つた。私は心底楽しくなつて、笑いながら手を振ると、三人とも笑顔で手を振りかえし、帰つて行つた。
 三人の背中がドアの向こうに消えると、途端に自分の笑ったままである頬の疲れが、空しゐものに感じられた。彼らの遠ざかつて行く足音を耳に、身体が弛緩していく。
独りになったとたん、火を消したような空しさだ。夜の帳が、すべてを浚つてゐる。
いやだいやだ、早く朝になれ、と気の早いことを思うが、そうゐうときばかり時間が私にまとわり付いて、耐えて耐えても、まだ深い夜から許されない。柳らが帰つてからやつと時計が四回廻った。
耳を澄ませば、遠くの手洗いで耳が流れる音、誰かのすすり泣く声、虫の泣き声も克明に聞こえる。丸井が随分前におゐていつたマンガ本も、手に取れば表紙の少年が剣を携え険しい顔をしてゐる様が色鮮やかに見て取れるのに、題名のところがかすんでしまつてよく解らない。不自由極まりない。私は眠らうとしたが、いつものごとく眠りは思うやうに訪れず、つらかつた。誰かにメールでもしやうかと思つたが、だうせ読み取れないと思うと不貞腐れてしまつて、ちよつと涙が出た。うつらうつらとしてゐるうちに、音のしない枕もとの時計がまたゆつくり廻り、静かに一時を指す。私はまうたまらなくなつてしまつた。誰かと話したい。誰か、私に優しい、労いの言葉をかけてはくれないものか。私は本当に情けないことだが、しくしく泣ゐてしまつた。心の中で真田を呼んだ。目の周りから頭がジンジンと痛くなつた。夕方の丸井と赤也の騒ぎ振りが恋しい。なんてこの病室は寒いんだらうと思うと居てもたつても居られなくなつて、毛布に深くもぐりこみ、神さまに「だうか真田をつれてきてください」と真田にはとつても迷惑な、無理なお願いをしてしまつた。しかし、私は平生から我が侭を余り表には出さず、神さまにお願いすることもほとんど無く、これが初めてと言つていいくらいだつたので、私の願いはかなえられてしまつた。
「□□□□」
 真田は寝巻きで、たいさう面食らつた顔をして私のかけ布団の足元から顔を出した。髪の毛に枕の跡がついてゐる。私は、あわててしまい、ひとまず無礼を謝つた。
「すまない真田!ああだうしやう!
思わず神さまにお願いしてしまつたんだ!
 だうしても君に会ゐたくつて」
 真田はびつくりしたままだつたが、私の話に得心したらしく、表情を緩めて、しつかりと掛け布団の上に正座しなおした。
「□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□」
 優しい顔で話してゐるので、私は安心した。真田は私には滅法甘いから、向かい合つたまま私の手をとつてさすつてくれた。
「人生で使えるうちの少ない願い事が、今きちんとかなつて私は嬉しい。
 君がそばに居てくれれば百人力だ。何も怖くは無いぞ。
 そんなところで寝巻き一枚なんて寒からう?
 一緒に布団に入らう」
 私が誘うと、真田は確かに、と言う風になつて、ごそごそ私の隣に来てくれた。一緒に並んで布団の中に寝転ぶと、あつたかくつて、体中がたまらなく弾むやうだつた。私の少し汗ばんでゐるけれども冷たい足を、真田の脹脛に擦り付けると、彼はそのざらりと乾ゐた暖かい脚で私の足をさすつてくれた。相変わらず、時々しやべる真田の言葉はどんなに耳を凝らしても聞き取ることができなかつたけれど、彼が隣に居てくれるのなら、ヨシとしやうと思つた。私は心配事なんかひとつもなくなつて、そのまますんなりと眠つてしまつた。こんなへんてこな病気、早く治つてほしいものである。
 朝起きると、真田の姿はぽつかりと抜け落ちて、ポプコーンの匂いだけが残つてゐた。いつの間にか彼が居なくなつてしまつたことがちよつと不満だつたが、まあ彼なりの配慮だと言うことで私は大人しくしてゐることにした。









2006.5.1加筆修正







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